ななきたのご隠居~野崎 幸治

千葉市美浜区で行政書士をしています。
地元では「ななきた(磯辺7丁目北自治会)のご隠居」と言われています。

東海道(藤枝宿)

2017年03月17日 | 旅行

岡部宿から藤枝市内にやって来ました。

瀬戸川

この付近が旧藤枝宿の史跡が残っているらしいのですがなにぶん事前の調査不足と時間もなかったので通過しただけです。

(岡部宿で撤収する計画でした)

志太一里塚蹟

このような史跡があると旧東海道と言った感じです。

松林も所々残っています。左折すると藤枝駅です。

二本の松が踊っているようです。

藤枝駅です。

ご隠居がサラリーマンを生業にしていた頃、新入社員研修で(ご隠居でも新人なんて頃もあったんですよね)4月に入社して6月頃だったかな(何十年も昔、笑っちゃいます)?まじめな顔して同期の連中と藤枝駅に降り立ちました。

勤務先の会社が藤枝市に日東紅茶と日本茶の主力工場がありました。暑くて緊張していたせいか工場見学した後のアイスティーが滅茶苦茶美味しかったのを今でも記憶に残っています。

日本人が唯一、インドでの買い付けから、製茶、パッケージしている日東紅茶です。朝の食卓にぜひどうぞ。

さて東海道膝栗毛では藤枝宿の出来事をかなり詳しく書いてあります。そこで素通りも悪いので

急いだせいで時間に余裕が少しできたので歩いてみるかと六合駅までの旧東海道を歩いてみました。

一駅間と軽く見ていたのですが思ったより距離があってあごを出してしまいました。

やはり松並木の面影がそこそこ残っています。

田中藩牓示石(ほうじせき)跡

このあたりは田中藩と掛川藩の土地が入り組んだ特異な村で、境界が分かるように牓示石を埋めたそうです。

またこの書の素晴らしさに旅人は驚いたそうです。

六地蔵堂(鏡池堂)

東海道を旅する人たちがここに立ち寄って旅の安全を祈願したとか。

また松並木が現れました。

東海道線が平行して走っています。一駅ぐらいあっという間です。

上青島一里塚跡

島田宿まで3.2kmとありますがその手前の六合駅までも結構ありました。つかれた!

自宅に帰って分かったのですが六合駅には「クモヤ93最高速碑」というのがあるそうです。

1960年11月21日当駅付近で当時世界最高速度175km/hを記録(狭軌)したそうです。

旅は予習(事前調査)が大事です。写真も撮って来ませんでした。

東海道中膝栗毛です。

藤枝の宿場に入ると田舎親父がやって来た。馬がはねて親父が驚き、避ける拍子に北八にあたる。北八は水だまりに転がり込んだ。

「この田舎親父め、目が見えぬか、寒烏(かんがらす)の黒焼きでも食らやがれ」

「こりゃ、どうも。御免なさい」

「やい、御免なさいじゃすまないわい。おい、この野郎は小粒でもぎゃあという第一声から、見付門の金の鯱(しゃち)を横目でにらんで、産湯の時から上水道をしたたかあびた男だ。江戸っ子だ」

「いんねはい、水を浴びたならようござんすが、そなたのこけてたころは馬の小便だまりだあ。気の毒だあ」

「その小便だまりに、なぜつっころしゃがった。さあ」

「そりぁ、なぜもねえだしもし。わしも急に、馬にはねちらかされ、ついそなたにぶつかっただ。ああ、しかたがないだあ。あきらめて、堪忍しなせい」

「なに、堪忍しろだと。いやだい。大江山の親分が鉄棒引きずって、渡りをつけにこようが、石尊様が、猪熊入道の似顔絵描いた提灯ぶらさげ、露地口からどぶいたの上へ、四つん這いになって、あやまりにきても、きかねぇといったら金輪際きかれねぇ。久米の平内をすわりっぱなしの居催促にやったよりかぁ、輪をかけてびっくりとせぬのが、この奴さまだあ」

     親父の返答省略

「ええい、悪く洒落らあ、尻がかゆいわい。たたき破って、頭のかけらでもひろわせてやりましょうか、ってんだ」

     省略(喧嘩も一段落して二人は旅を続けますが)

笑いながら瀬戸川を渡り、志太村の橋を通って瀬戸という立て場に着く(冒頭の写真の場所です)

江戸っ子というのは元気がいいというか口が悪いというか。

そしてこの先、町はずれの茶店でこの田舎親父と再会します。

田舎親父が先ほどの失礼に免じて酒を二人に御馳走してくれることになりました。

二人は喜んでこれとばかりに飲んだり食ったりしますが田舎親父は小便に立って行きそのまま逃げてしまいます。

田舎者と侮って恨みの仕返しをされます。馬鹿なんです。

 

松尾芭蕉が深川の居宅を処分して決死の思いでみちのくに旅立つのが元禄15年(1702年)です。各地で日本人の心を震わせるような俳句を詠みました。

その100年後享和2年(1802年)に東海道中膝栗毛の連載が始まりました。100年も過ぎてますます世の中が安全になったせいかこちらは日本橋を出立する時から気楽です。

どちらも現代と違って豪華なカラー写真一枚ない紀行文ですが江戸時代の人達に愛されましたね。

 

ご隠居の友人が「紀行文はまずちゃんと読む気がしないよね。以前は交通機関ぐらいは参考にしたけど今はネットを見た方が早い」

たしかに旅行雑誌も売れないでしょうね。

「外はカリッとしていても中はもちもちでフルーティです」なんていう文章読みたくないですよね。

 

コメント
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