ななきたのご隠居~野崎 幸治

千葉市美浜区で行政書士をしています。
地元では「ななきた(磯辺7丁目北自治会)のご隠居」と言われています。

奥の細道旅行譚(黒塚)

2016年06月26日 | 旅行

安達ケ原ふるさと村から安達ケ原黒塚の岩屋にやって来ました。

芭蕉一行は陽暦6月17日にやって来ました。

岩屋のある観世寺(かんぜじ)の入り口です。

入場料を払ってパンフレットをいただいて入ってみました。

五重塔も見えました。

出刃洗いの池

白真弓如意輪観音堂

本堂です。

右側に宝物殿があります。中に入りましたが特にコメントはありません。

うっかり悪口書くとどこからかクレームがつくといけないので省略です。

裏手に回ると岩屋があります。

「安達ケ原 鬼婆 伝説」

昔、京都の公家屋敷に「岩手」という名の乳母がいて、姫を手塩にかけて育てていました。

その姫が重い病気にかかったので易者に聞いてみると「妊婦の生き肝を飲ませれば治る」ということでした。そこで岩手は生き肝を求め、旅に出て安達ケ原の岩屋まで足をのばしました。

木枯らしの吹く晩秋の夕暮れ時、岩手が住まいにしていた岩屋に生駒之助、恋衣(こいぎぬ)と名乗る若い旅の夫婦が宿を求めてきました。

その夜更け、恋衣が急に産気づき、生駒之助は産婆を探しに外に走りました。

この時とばかりに岩手は出刃包丁をふるい、苦しむ恋衣の腹を割き生き胆を取り出しましたが恋衣は苦しいい息の下から

「幼い時京都で別れた母を探して旅をしてきたのに、とうとう会えなかった・・・」と語り息を引き取りました。

ふと見ると恋衣はお守り袋を携えていました。

それは見覚えのあるお守り袋でした。なんと、恋衣は昔別れた岩手の娘だったのです。気づいた岩手はあまりの驚きに気が狂い鬼と化しました。

以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、いつとはなしに「安達ケ原の鬼婆」として広く知れ渡りました。

鬼婆が住んでいたという岩屋です。

大きな岩の上に比較的扁平な岩が乗って庇のように突き出ています。

古代蝦夷人がこしらえたトーチカではないかと言われています。

観世寺を出て阿武隈川の堤防を乗り越えて河川敷に黒塚がありました。

芭蕉は「かつみ、かつみ」と歩いているうちに夕暮れになった。

読者をおどかそうと日が暮れて薄気味が悪い中を鬼婆の墓に向かった。そして一見しただけでコメントもなく次に行きます。

読者にホラー感覚を味わってもらう趣旨でしょうか。

なお「曾良旅日記」を読むと日が暮れるのにはまだだいぶ時間があって観世寺の岩屋も見ているようです。奥の細道は単なるありのまま書いた紀行文ではなく芭蕉のロマンなのですね。

鬼婆の墓です。大きな杉の木の下にありました。

 

奥の細道(浅香山・信夫の里) 前半部分

等窮が宅を出て五里ばかり、桧皮(ひわだ)の宿を離れて、浅香山あり。道より近し。このあたり沼多し。

「かつみ刈るころもやや近うなれば「いずれの草を花がつみといふぞ」人々に尋ねはべれども、さらに知る人なし

昔、籐(とうの)中将実方が古歌からアヤメの代わりに花かつみを刈らせた。そのかつみを刈る端午の節句も近いので「どの草が花かつみというのか聞いたが誰も知らない。

沼を尋ね、人に問い「かつみかつみ」と尋ね歩きて、日は山の端にかかりぬ。

「かつみ、かつみ」と尋ねているうちに夕方になってしまった。

二本松より右に切れて、黒塚の岩屋を一見し、福島に泊まる。

 

さて奥の細道も少し飽きてきましたね。この旅は今回で一応終わりです。この次は夏休みに前後しますが出羽三山を歩いてみたいと思います。

 


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