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菊池達朗の大学野球が終わった

2013年11月05日 | 白堊野球
大学4年間の成績
 ・登板試合7 ・登板回数9 ・勝敗0勝1敗 ・防御率6.00

2011年5月中旬私は神宮球場に向かった。
2年生になった達朗は4月の立教戦でデビューし、その後の東大戦でも好投。
先発も期待できる状況に胸を躍らせて球場正面で達朗の到着を待った。

しかし、達朗は球場にやって来なかった。
理由は知っている。部のルールを破ってしまったからだ。
達朗は一時期野球部を辞めようと考えたことがあったとも聞く。
そんな達朗を父は故郷である東日本大震災直後の釜石に連れて行く。

「自分が野球を出来る幸せをわかって欲しい」

父の思いを受け止めた達朗は再び秋のリーグ戦でマウンドに立った。


私は2006年暮れに初めて「菊池達朗」の名前を知った。
場所は三戸町のラッキー本店2階。
中学3年生の有力選手をピックアップする一高硬式野球部OBの会合に招かれたのである。配布された資料にはもちろん「菊池雄星」「熊谷童夢」「川村悠真」の名前があった。その中に「赤澤裕介」と並んで「菊池達朗(大宮中)」の名前が記されていた。資料を作成した1つ上の先輩が詳しい選手の特徴と一高入学の可能性について述べたが、達朗については詳しく触れられなかったと記憶している。

年が明け、達朗の名前も忘れかけた春の練習試合。
ショートを守る強肩で守備範囲の広い小柄な選手に目が釘付けになった。それが達朗である。

「これは凄い」と唸った。

そして、内野手から守備範囲の広い、ランナーを簡単にスコアリングポジションに送らない、完璧な守備力を兼ね備えたピッチャーに育って行った。


達朗君、大学の後はどうするのかな。
教員となって故郷の野球少年を育てる夢は叶いそうですか?
まだまだ野球チームでマウンドに立ちたいのではないですか?

大学時代の生の姿を見ることができなかった私は、まだまだ達朗君のユニフォーム姿を見たいと思っています。盛岡一高、慶應大学で学んだ物事に真摯に取り組む姿勢を大事にしてこれからも歩んで行ってください。

あなたの業績とプレーは長い盛岡一高硬式野球の歴史に燦然と輝くものです。

頑張れ菊池達朗!

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