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“命のビザつないだ日本人

2016-11-01 07:15:00 | 報道/ニュース

10月8日 おはよう日本


第二次世界大戦中
ナチスドイツの迫害から逃れようとするユダヤ人にビザを発給し
多くの命を救った外交官の杉原千畝。
実は杉原とともにユダヤ人の救済に尽力したもう1人の日本人がいる。

去年公開された
日本の外交官 杉原千畝を描いた映画。
第二次世界大戦中のリトアニアで
ナチスドイツの迫害から逃れようと日本領事館に押し寄せたユダヤ人たちに
杉原は日本の通過ビザ御発給する。
ドイツと友好関係にあった日本政府はビザの発給を制限するよう命じたが
杉原は人道的立場から
支持に背いたのである。
杉原のビザによって6千人もの命が救われたとされ
“命のビザ”として語られるようになった。
ビザを発給されたユダヤ人たちは
シベリア鉄道でロシア極東へ渡り
日本に入国。
その多くは神戸に滞在した。
しかしユダヤ人たちはここでも新たな困難に直面する。
発給されたビザで許された滞在期間は2週間程。
わずかな間に次の行先を確保できなければ
強制的に出国させられるおそれがあったのである。
今年 中東イスラエルで
杉原の没後30年を記念して
“命のビザ”に救われたユダヤ人たちが集まった。
日本にたどり着いてからの話を聞くと
神戸で助けてくれた日本人について話してくれた。
「ビザの期限が短かったのですが
 小辻さんが延長してくれました。
 そのおかげで私たちは追い出されずにすみました。」
小辻とは
当時日本では数少なかったユダヤ文化の研究者 小辻節三のことである。
アメリカで旧約聖書やヘブライ語を学んだことからユダヤ人の間で知られていた。
(外務省外交史料館 石田訓夫館長)
「小辻節三という人は日本のユダヤ学の草分けだったわけで
 それゆえにユダヤ難民に深く関わっていくことになった。」
俳優の山田純大さん。
留学したアメリカでユダヤ人の知り合いから小辻について教えられ
それ以来 小辻のことを調べ続けている。
(山田純大さん)
「ものすごい感動して
 こういう人がいたんだと。
 杉原千畝さんは命のビザっていう
 例えばボールを投げたピッチャーだとしたら
 日本で誰がキャッチャーだったのか
 そこに僕は興味をもって。」
資料を集めるなかで
ユダヤ人たちが助けを求めて小辻にあてた手紙を見つけた。
小辻が外務省にビザの期限を延長するよう訴えるために
自ら翻訳したものである。
何千人ものユダヤ難民が
各地に向かう途中
日本を通過しています。
あなたがユダヤや問題に関心を持っておられるので
援助をお願いしたい。
小辻は戦後に収録されたラジオ番組でこの時の思いを語っている。
逃れてくるとみな私を頼って
いろいろ助けを求めたものですから
その方の学問もしとるよしみと
生まれながらの侠気(きょうき)が手伝いましてね
小辻はビザの延長を求めて外務省に何度も通いつめた。
日本がドイツとの同盟関係を深めていく中で
小辻は憲兵などから目をつけられることもあったと言う。
特高(特別高等警察)や憲兵隊が始終つきまといましてね
尾行しておったようなことが気づかれますね
それでも小辻は約1年半の間に
ユダヤ人たちが安全な国へ出発するまでの道筋をつけた。
小辻がとった行動は
当時助けられた人たちの心に残っている。
5歳のとき家族とともに神戸にやってきた リブカ・エズラヒさん。
「これが私たちのビザです。
 彼はすべてを私たちのために尽くしてくれました。
 私たちは神戸に半年間いることができました。」
エズラヒさんは
戦後小辻がイスラエルを訪れたとき大きなニュースになったと言う。
「忘れるはずがありません。
 歓迎会を開き
 みんなで大騒ぎしましたが
 小辻は謙虚で
 自分がやったことに対して何も求めませんでした。
 毎年 小辻の命日に私たちは彼のために祈りをささげています。」
杉原千畝と“命のビザ”を受け継いだ小辻節三。
ふたりによって救われた人々の子孫は
いま4万人を超えるまでになったと言われている。




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