むねに届く 山本純子
からだという住まいの
棟のあたりに
郵便受けがひとつ
取り付けてあって
時たま誰かのことばが届いたりする
郵便受けは手の届く高さにはないので
ほとんどのことばは
軒下に落ちている
意味深い詩です。
おとなが、子どものことばを確実に受けとめているかが、問われているように感じます。
子どものいうことばだからと高をくくっていると、おとなに子どもの声は届きません。
たとえば授業中。机に座っている生徒が、教師に質問をします。このとき、心得た教師なら、膝をかがめ、生徒と同じ高さになり、視線を合わせて、質問を受けます。
高い所から子どもを見おろすように会話するおとなには、すべてがそうだとは言いませんが、子どもとの関係に上下関係の意識が入り込んでいる場合が多いのではないでしょうか。
そのような教師や親の足もとには、子どもの素直なつぶやきが、たくさん落ちているのではないでしょうか。ああ、もったいない!
おとなは子どもを見守り、ときには叱り、ときにはほめ、ときには共に悲しみ、ときにはいっしょによろこび、サポートしていくもの。
そのときのポストの高さは、子どもの手が届くぐらいでないと、メッセージはおとなの胸には届かないのです。
教育に携わる私は、どうしてもおとなと子どもの人間関係で捉えてしまいます。しかし、相手が子どもだけとは限らない。おとな同士でも、相手からのメッセージが届くかどうかは、自分と相手の関係によってきまる。
このようなことを、「むねに届く」の詩から思うのです。