私たち大人は、動きやふるまい、動作がいつの間にかできるようになったと思っています。
しかし、よく考えたらそうではないことに気がつきます。たとえば、鉛筆をもつという当たり前の行為も、親をはじめとするまわりの大人が、いつかある時に教えてくれたのです。
字を書くのも先生や親が教えてくれて、何度も何度も練習を繰り返して身についたのです。
服を着る
自転車にのる
ボールを投げる・・・
すべての動作や動きは過去のいつかの時点で身についたものです。
おそらくほとんどの運転能力は、子どものころの環境が影響するのかもしれません。次のような駅の階段での光景を想像してみます。
歩き始めた小さい子が階段を上るのはたいへんです。一段ずつ上がるが、段差は小さい子にとっては大きすぎます。ふらつきながらも、一歩ずつ確実に脚をあげのぼっていきます。
横についているおとなが、もし転びそうなときにはいつでも手を差し出す準備ができている。
「よいしょ、よいしょ」のかけ声とともに最後まで上りきる。上りきった子は自分の力で上ったという達成感いっぱいで、すぐさま今度は駆け出そうとします。おとなは慌ててひょいとその子を抱き上げる。
このような転ぶ危険すれすれのところで、子どもの運転能力は鍛えられるのでしょう。
しかし、いまやおとなはケガをしないようにと、子どもを抱いて階段を上がります。あるいは、忙しいおとなは、ケガをしないためというよりは、時間を短縮するために子どもを抱いて上ります。エスカレーターに乗せる場合もあります。
箕面市の子どもの運動能力や体力が低いと、スポーツテストの結果を引き合いにして話題になります。そのため、体育の授業の充実や中学なら部活の大切さが問題とされます。
しかし本当の課題は、幼少期からの危険すれすれのところで子ども自身が挑戦する機会を、おとなが設けているかににあります。
この幼い頃からの課題に箕面市は気づくべきであり、行政が学校にばかり責任を求めるのは、問題の本質を見誤っていると言わざるをえません。
傍らに寄りそうおとなが、子どもを危険すれすれまで遊ばせてくれるかどうか。のちにわ子どもにチャレンジする意欲が起こるかは、それがすべてだと言い切ってもいいほどです。