先日、赤とんぼを家の近くで見つけました。
「夕焼、小焼のあかとんぼ 負われて見たのは いつの日か」
三木露風が「赤とんぼ」を発表したのは1921年(大正10年)のことでした。
この詩に山田耕筰がメロディをつけ、「赤とんぼ」になりました。
わたしはこの赤とんぼの曲をきいたり、歌ったりしたころは子どもの頃でした。美しいメロディに何かしらのさみしさを感じたのを今でも覚えています。
「おわれてみたのは」の「おわれて」の情景は、小さな子どもが赤とんぼ採りをしていて、赤とんぼを追いかけていたと解しましたが、あとになって母の背に負われていたと知りました。
さて、露風は兵庫県たつの市で生まれました。5歳のときに両親は離婚して、母は弟を連れて実家(鳥取県)へ帰ってしまい、露風は祖母の家に引きとられました。
1926年の『櫻(さくら)の下』の詩の原稿を綴ったノートには、「おっかさん、どこへ行ったのか。櫻の下で、待っても待ってもおっかさん、かえらぬ、どこへいた。・・・」と書かれています。
ある日、露風が幼稚園から帰ると、母はいなかったのでした。露風は、母の実家の方角に通じる紅葉橋で、毎日毎日母の帰りを待ったそうです。
露風が18歳になったとき、母(再婚した)からの手紙が来ました。
「汝(なんじ)の頬を当てよ、妾(わらわ)はここにキスしたり」と書かれていました。
露風はその手紙を抱きしめ、泣いたといいます。
母への想いはいくつになっても尽きることはなかったようです。
母が亡くなったのは1962年1月のこと。知らせを聞いて通夜に訪れた露風は、遺族に頼み、母の横に添い寝させてもらいました。
そのとき露風はすでに72歳でした。67年ぶりに母との添い寝の夢が叶ったのでした。
わたしが子どもの頃によく聞いた赤とんぼの曲想に、なにかしらのさみしさというかわびしさを感じた理由がわかりました。
露風が母を思う慕情。「赤とんぼ」の曲を口ずさむと、切なさがこみ上げてきます。
(「毎日新聞」2021年10月13日号の「おでかけ」をもとにして、書きました。)
けど“母の背に負われていた”
初めて知りました
有難うございます♪