2012年夏のある日、私は病院の待合室にいました。ローカをはさんだ向かい側のイスに3,4歳ぐらいの男の子がお母さんに連れられて座りました。
しばらくして、男の子がお母さんを指でそっと突っつききます。お母さんはさっとバッグの中からお茶の入った水筒を取り出しました。
飲みおわってしばらくするとお母さんはその水筒にふたをしてバッグの中にしまいます。
その後ちょっとしてから、また彼はお母さんを突っつきます。するとお母さんはすぐに察して小さな「あめちゃん」を子どもの口の中に入れます。
この間、親子の間で、ほとんど言葉を交わしませんでした。
このとき私は最初、「さすがお母さん」と感じました。親子の関係が深く、おたがいに言葉を使わなくても、わが子が何を欲しているかがわかるのだ。これを親子の関係かなと感心しました。
しかし、次に言葉を使わなくてもわかりあえることに、ちょっとした不安も感じました。
このとき私は最初、「さすがお母さん」と感じました。親子の関係が深く、おたがいに言葉を使わなくても、わが子が何を欲しているかがわかるのだ。これを親子の関係かなと感心しました。
しかし、次に言葉を使わなくてもわかりあえることに、ちょっとした不安も感じました。
私の子ども時代は、街でよく子どもが「ギャーギャー」と泣きながら立ちつくし、あるいはとぼとぼ歩き、親に何かを求めている光景をしばしば見かけました。
でも最近、子どもが駄々をこねて泣きわめいている光景を目にすることはめっきり減ってしまいました。
泣く前に親が泣かなくてもすむように、子どもがしたいことを察して、子どもの欲求を満たしてしまうのではないでしょうか。
言葉を使わなくても、相手が言うことを感じとることはたしかに大切な力です。以心伝心の言葉通り、日本では昔から「文脈を読む」という技があります。
ですがそれに慣れてしまうと、子どもは話すことで自分のいいたいことを伝える術(すべ)や力をもたないまま大きくなっていくのではないのか・・・。
子どもたちはいずれ社会に出ていきます。いまの時代、社会で人との良好な人間関係を築けるためには、言葉によるコミュニケーションがかならず求められます。
言葉を使わなくても、相手が言うことを感じとることはたしかに大切な力です。以心伝心の言葉通り、日本では昔から「文脈を読む」という技があります。
ですがそれに慣れてしまうと、子どもは話すことで自分のいいたいことを伝える術(すべ)や力をもたないまま大きくなっていくのではないのか・・・。
子どもたちはいずれ社会に出ていきます。いまの時代、社会で人との良好な人間関係を築けるためには、言葉によるコミュニケーションがかならず求められます。
という点では、親子関係においても、親はあまり「察しのいい親」でないほうがいいのでしょうか。
子どものいいたいことに気づかず、親が「なんなの?」とか「どう思うか聞かせて」というように、言葉で説明することを求めると、子どもは親にわかってもらおうと言葉を駆使します。
これは子どもが中学生のような大きい年齢になっても同じです。
まして中学生の場合、子どもによっては親が何を聞いても、「別に!」とか「ああ!(おお!)」とか「わかってるわ~!」、「いわんといて!」といい、会話が成り立たなくなることがあります。
しかし、それでも言葉で説明することを求めるべきでしょう。
母 :「~についてどう思う?」
息子:「ああ・・・」
母 :「ああではわからん」
息子:「わが子やろ」
母 :「わが子でも、わからんものはわからんのや」
このような会話を、怒りながらではなく、ボケながら突っ込みながら、気楽に楽しくできればいいのです。
子どもが幼いときと大きくなってからでは、やり方が少しは変わるでしょうが、子育てでやることは変わらないのです。それは言葉を使って話させることなのです。
母 :「~についてどう思う?」
息子:「ああ・・・」
母 :「ああではわからん」
息子:「わが子やろ」
母 :「わが子でも、わからんものはわからんのや」
このような会話を、怒りながらではなく、ボケながら突っ込みながら、気楽に楽しくできればいいのです。
子どもが幼いときと大きくなってからでは、やり方が少しは変わるでしょうが、子育てでやることは変わらないのです。それは言葉を使って話させることなのです。