箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

ぼちぼち始める 2学期

2020年08月19日 06時52分00秒 | 教育・子育てあれこれ


新型コロナウイルス感染防止の臨時休校のため、4月・5月だけで約35日、授業時間にして200単位時間ほどを学校は失いました。

その分、児童生徒は「ステイ・ホーム」しました。

その間、プリント課題やオンライン学習の家庭学習にしっかりと取り組めた子どももいれば、あまり学習をせずに過ごしていた子どももいるのが実情です。

あまり学習をせずに、ダラーと過ごしていた子の中には、「休みグセ」や「さぼりグセ」がついてしまった子がいます。

ただし、休みグセやさぼりグセがついたとみえる子どもたちも、さまざまな角度からみると、ちがった姿が浮かび上がってきます。

そもそも、「みる」には、さまざまな意味があります。「見る」「看る」「観る」「診る」「視る」などです。

教師の「みかた」で、子どもの「みえかた」も異なってきます。先入観や外見、表に表れている言動だけで判断しては、教育のプロとしての本当の子どもの姿を「みる」ことはできないのです。

しかしながら、とかく教師の行う指導支援は、子どもの表面上見える言動をもとにして行われることが多いものです。

たとえば、花粉症の症状であるくしゃみ、鼻水、目のかゆみだけを患者さんから聞いて、薬を出す医者はいません。

じっさいに、鼻腔を観察し、どこがアレルギー反応を起こしているかを目視して、薬を処方します。

教師も同じで、生徒の言動の背景にあるものや理由を考えることなく、指導支援を行うことはできません。

この点を踏まえて、休みグセやさぼりグセのようにみえる言動であっても、なんらかの要因があると理解するのが心ある教師です。

たとえば、両親は家庭でのリモートワークができない仕事で家にいなかった。

そのため、昼間は一人で家庭で過ごす時間が長かった子どもは、生活のリズムが大きく崩れ、無気力になり、学校に来るのが億劫になっているのではないか。

それが、表面の行動では休みグセやさぼりグセとなってみえているのかも。

このように想いを巡らせる教師であってほしい。

今年度は、新型コロナウイルス感染症の影響で、長い臨時休校が続きました。

そのため、失われた授業時間をとり戻そうと、かなり速いペースで授業を行い、子どもたちにとって楽しみな学校行事がなくなったり、規模を小さくして教育活動を進めている学校も多いと思います。

このことが、逆に子どもを追い詰め、身体的・メンタル的な調子を崩すことにならないかと心配します。

文科省も、授業のあり方をいろいろ工夫して、「学習の重点化」を」はかり、それでも教科書が年度内に終わることがどうして難しいときには、次年度以降に持ち越すことも認めています。

そろそろ2学期が始まる学校も多いと思います。まず、ものごとには「助走」が必要です。ウォーミングアップが必要です。

大人でも、月曜日やお盆休みのあとの出勤には、気が重くなりがちです。子どもだって同じです。

ゆったりとしたスタートを切れるよう、学校側の配慮が必要です。

私たちは自分の意思で出会った

2020年08月18日 18時59分00秒 | 教育・子育てあれこれ

映画「君の膵臓を食べたい」には、次のような言葉が出てきました。

「私たちは皆、自分で選んでここに来たの。偶然じゃない。運命なんかでもない。

君が今まで選んできた選択と、私が今までしてきた選択が私たちを会わせたの。

だから、私たちは自分の意思で出会ったんだよ」

私たちは、「出会い」を偶然の産物と考えがちです。

学校でなら、○年度の○年○組のメンバー同士は、先生たちがクラス分けをして、たまたま同じクラスになった者どうしとなります。

そうかもしれない。

でも、人生や生きることは、じつは選択の連続なのです。

たとえば、A高校へ行って、野球をしたいと思い合格したのです。
選択をしたのです

同時に、別の人が、A高校へ行き吹奏楽をしたい。
これも選択をしたのです。

その二人が、もし学校で恋人どうしになれぼ、二人の選択が、二人を出合わせたことになる。

これは、とりも直さず、自分たちの意思で出会ったことになる。

そういう意味と、私は解釈しました。

ちょうどこの映画を観たあとに、教え子が集まる同窓会がありました。

そのあいさつで、私は映画「君の膵臓を食べたい」の中のセリフを引用して語りました。

「この同窓会の集まりは、偶然の出会いではない。みんなの選択と意思が、私たちを出会わせたのです」と。



気づきを生む教育相談

2020年08月18日 07時48分00秒 | 教育・子育てあれこれ
生徒にとっての教師は、やはり最大の「教育環境」です。生徒が困難なことに直面したとき、教師は生徒から相談を受けます。

その相談によって、子どもの学校生活の過ごし方が大きく変化することがあります。

その点で、「教育相談」は大きな意義をもっています。

中学校では、非行やいじめが起こったり、生徒が不登校になったりする課題があります。

それは生徒指導上の問題ではあります。

ただし、問題が起きることが問題ではなく、その問題が継続することこそが問題なのです。

問題が継続するのは、なんらかの悪循環が働いています。

その悪循環という流れを止め、生徒が自分の力で適切な方向に向いていけるように、教師がかかわり支援することを、中学校では「生徒指導」と呼んでいます。

実際にあった例を示します。

不登校の生徒Sから教師Tが話を聴きます。

T:「家では、いまどんなことをしているの?」

S:「スマホをさわったり、スマホでゲームしたりかな」

T:「スマホなんだ。一人でやっていてさみしくはないかい?」

S:「さみしい時もあるけど、友だちがいないから、しかたない」

T:「ずっと一人で家でがんばっているんだ。なぜ、そんなにがんばれるのかな?」

S:「ぼくはがんばっているのかな・・・? 一人で家にいるのも慣れてきた。自分で学校を休んでいるんだから、しかたないよ。スマホをさわっていると、学校のことが気にならなくなる」

T:「そうなのか。スマホは学校を忘れさせてくれるんだ。そのことに気がついているだけでもすごいと思うよ」

S:「でも、ほんとうは、好きでスマホをやっているのではないかもしれない・・・」

この対話で、よくありがちなのが「なんで学校に来れないのかな」「どうしたら登校できるようになるかな」という質問です。

でも、これは不登校の子には難しい問いです。

そこで、この対話は学校についての話題をとりあげてはいません。

Sがいま生きている世界、リアルな世界である家での本人なりのがんばりに焦点をあて聴くほうがいいだろうと教師は思って質問をしています。

そして、「なぜ、そんなにがんばれるのかな?」と、逆説的な質問をはさみこんでいます。

Sにとっては、「自分は学校を休んでがんばれていない」と感じているのに、予想外の言葉がきて、気持ちを揺り動かされています。

そして、次に自分のことを見つめて、考えて、「スマホをさわっていると、学校のことが気にならなくなる」という気づきに至るのです。

このように、子どもが問われて意外に思う問い、教師が逆説的な聞き方をする方法があります。

「そうだったのか、学校のことを考えたくないので、ぼくはスマホをしていたのかもしれない」という悪循環の連続に、中学生なら気がつきます。

「ぼくは好きでスマホをやっているんじゃない」と続いて考えていくとき、不登校を乗り越える変わり目への一歩となるのです。

このようなやりとりができるのも、思春期の中学生ならではです。

考えて、自分での気づきを見つけた生徒は、自分からどうしていくかを定めて、実行していくのです。

このように、中学生は力強い存在であると、私は思います。

言葉使いに気をつける

2020年08月17日 09時35分00秒 | 教育・子育てあれこれ
ほとんどの人が、共通してもちあわせているのが「言葉」です。

言葉で人を励ましたり、助けたり、なぐさめたりできます。

ところが一方で、言葉が相手を傷つけたり、悲しませたり、怒らせたりもします。

学校の先生が、落ち込んでいる生徒を言葉で慰め、笑顔にかえます。

でも、悲しみに暮れている人に、無神経な言葉を発して、さらに辛さを増したりします。

言葉をどう使うかは、その人にかかっています。

そして、使う人と使われる人との間には、何らかの知り合いであるとかの人間関係があるのが従来の特徴でした。

知らない人に対して、言葉を発する方法や手段が限定されていました。

その関係性をもとに、使う人は、その使い方に気を遣うことができました。

 

ところが、今の時代は、インターネット上で、知らない者どうしで、言葉がたくさん飛び交い、同じく知らない誰かのことを話題にするようになりました。

その言葉はかたまりとなって、あるいは一つだけでも、鋭いトゲで人に突き刺さります。

言葉を交わす空間が広がったという他方で、人が傷つけられるリスクが爆発的に増えているのです。

そんな時代の到来を先取りするかのように、2004年に浜崎あゆみは、自身の曲「Moments」の中で、次の歌詞を残しました。

「いき場所をなくして さまよっている
むき出しの心が 触れるのをおそれ
鋭い刺 張り巡らせる」

誰もが、他者からの言葉に対して敏感に反応します。

言葉をどう使うか、相手がどう受け取るかには、私もふくめ、センシティブでありたいと思います。

生きがい

2020年08月16日 06時33分00秒 | 教育・子育てあれこれ


第二次世界大戦の終戦から、昨日で75年となりました。


人は生死の極限にあるとき、生きるか死ぬかを決めるのは「希望」があるかないかだと思います。

第二次世界対戦のとき、アウシュビッツ収容所で、生き残った人がもっていたものは、その人の運もあったでしょうが、その人が心に抱く希望であったようです。

囚われの身となり、いつ命を落とすかわからない状況でした。

「もうダメだ」と、誰しもがあきらめて死を覚悟する状況に置かれた中で亡くなっていきました。

ところが、「戦争はいつか必ず終わり、妻子にまた会うことができる」などの希望を捨てなかった人は生存を続けることができたのでした。

「もうダメだ」と思い始めると、ほんとうに「もうダメ」になるのです。

希望は人に生きる勇気を与えるのです。

戦争以外でも、人間には順境のときもあれば、逆境に見舞われるときもあります。

失敗や挫折を味わっても、そこから起き上がるには、強い意志の力も必要でしょう。

でも、そんなときでも、自分を支え励ましてくれるのは、希望なのだと思います。

生きる希望とは、自分の人生に意味を見つけることから生まれます。

生きる希望をもっていること、人を愛し、愛されることから「生きがい」が出てくるのです。



いまの中学生にとって、学力や体力を伸ばすことは大事であるのはいうまでもありません。

しかし、人に生きがいを与えるほど、自分としてのやりがいを感じることはないのです。

そんな大人になってほしいと願うのです。

中学生のいるご家庭も、家族を愛し、愛されるご家庭であることを願います。

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「生きがい」
(1983年 歌:岩崎宏美 作詞:有馬三恵子)

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ああ  ひとりひとりの心は
はかない水にも  似ていそう
ああ  だからあなたとわたしを
めぐり逢わすなんて
愛はある日  しみじみと泣きたいほど

ああ  つらい思いもするから
夢ももてるなんて
愛はある日  きりもない生きがいなの
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教えて導くだけではない

2020年08月15日 06時08分00秒 | 教育・子育てあれこれ
生徒により個人差はありますが、生徒の中には、深い悩みや心の揺れを感じながら生活している子もいます。

どの子も、程度のちがいはあれ、多かれ少なかれ気持ちが揺れるのです。

自分を過小評価して、恥ずかしがり屋で、「自分はとるに足らない存在」と思い、一度は自信を見失う時期でもあります。


悩みを抱える生徒と話すことがあります。

人は自分の心にある悩みや困りごとを誰かに話したり、打ち明けたりすることでホッとして救われた気持ちになることがあります。

受ける教師は職務上、なにか解決方法をしめさなければならないと思いがちです。

でも、別に解決してもらわなくてもいい、何かアドバイスをしたからなくてもいい、ただ話を聴いてくれるだけでいいという場合が多いようです。

私の話を聴いてくれたということで、自分が存在していることを確かめることができ、ズッシリと重かった心が、少し軽くなることがあるのです。

思っているだけでなく、言葉にして話すことで、自分自身の耳でその言葉を聞き、混乱していた心が整理されることがあります。

また、「ああ、これが私の悩んでいたことだったのか」と客観的に眺めることができる場合もあります。

「聴いてくれる」には以上のような効果があるのですが、それ以上に、誰かが一人でも、自分の話に真剣な耳を傾けてくれたことに喜びが生まれるのです。

そして、自信をとりもどし、生きることへの勇気が生まれるのです。

この効果を、教師や親はもっと深く考えるべきだと思うのです。

もちろん、この通りにならないこともあるでしょう。

「どうしたらいいか、大人だったら言ってよ」となることもあるでしょう。

しかし、大人が教えて導くという考え方から、子ども本人の中にある回復力を引き出すとか、本人が気づくという付き合い方も、思春期の子にはとくに大切だと思うのです。

嫌われたくない中学生

2020年08月14日 06時54分00秒 | 教育・子育てあれこれ

今の中学生は、友だちに嫌われたくないという気持ちを強く持っています。

 

「ぼっち」はイヤというように、まわりに嫌われることを極端におそれています。

 

大学生でさえ、友だちがいないとまわりから思われるのがイヤで、学食で一人で食事ができず、トイレの個室で食べる人もなかにはいます。(これは事実です)

 

でも、私は「嫌われたくない」という中学生に、秋元康先生が言った言葉を伝えたいのです。

 

 

誰からもよい人だと

 

思われることを目指すと、

 

誰からもどうでもいい人に

 

なってしまいますよ。

 

だから、これからは、

 

嫌われる勇気を持ちなさい。  

 

この言葉は、高橋みなみさんに、秋元康先生(作詞家・プロデューサー)が送ったアドバイスです。

 

人はだれしも嫌われたくないと思うものですが、彼は「人から嫌われることを恐れるより、欠点があってもいいから、それ以上に魅力のある人間になったほうがいい」と説いたのです。

 

 

また、今の中学生には、友だち関係内での同調圧力が強く働きますので、グループ内で一人だけちがった発言や行動をしないでおこうときめている傾向があります。

 

そんな場合にも、嫌われる勇気をもつことが望まれます。


人生は「軌跡」

2020年08月13日 08時59分00秒 | 教育・子育てあれこれ



学校の先生は、しばしば「いのちの授業」などで、生きていることは奇跡であると、生徒たちに話します。

生まれてきたことそのものが「奇跡」だとも言います。

でも、人がこの世に命を受け、生きていくことを「人生」とするならば、人生は「奇跡」ではないのかもしれません。

人は齢(よわい)を重ねると、人生は「軌跡」であると言えるのではないかと思います。

その人が、どのような信条をもち、何を大切にして、何にこだわって生きてきたかという、生きてきた道すじです。

そして、もし歩くところが前人未踏の地ならば、歩いた後に道がつきます。後ろを振り返れば、道ができている。

この理(ことわり)は魯迅の言葉、「人の前に道はない。人の後に道はできる」に通じるのです。

オンライン授業の工夫

2020年08月12日 07時19分00秒 | 教育・子育てあれこれ
大学の中には、新型コロナウイルスの感染再拡大に伴い、後期も引き続きオンライン授業の継続を決めたところがあります。

児童・生徒・学生は、今後、「新しい学校生活の様式」で学習していきます。

新しい学校生活では、新型コロナウイルスが収束しても、以前のような対面式授業だけのスタイルに戻ることはないのではないかと予想されます。

つまり、三密を避ける必要がなくなり、対面式授業・講義ができるようになっても、オンライン授業も残り、併用していく学校生活に変わっていくのでないかということです。

ところで、大学の先生と小中高の先生の授業観は、本質的に違う性質のものです。

多くの場合、大学の先生は、講義や授業をしますが、本命は論文を書くなどの自身の研究活動にあります。

一方、小中高の先生は、児童生徒に学力をつけるため、授業をすることそのものが仕事の中心となります。

その意味で、同じ空間に授業者と学習者がいっしょにいるという対面式の大切さは、大学と小中高では異なるのです。

その異なる点はあるにせよ、新型コロナウイルス感染症収束後も、オンライン授業は何らかの形で残っていくのです。

それほど、ICTを活用するのが当然という社会や教育に変わってきているのが、時代の流れです。

新型コロナウイルスは、じつはオンライン学習の導入という、その時代の流れを加速させるきっかけになったという見方を、私はしています。


さて、オンライン授業は、対面式授業とちがい、工夫をしなけれればならない点がいくつかあります。

とくに、教師がずっと話して授業を進めていき、学習者が受け身で聞くことが多いという「一方通行」のオンライン授業の場合について述べます。

そのような「双方向」でないオンライン授業の場合は、対面の授業とちがい、学習者が得る視覚情報は画面からだけになります。

教室でなら、友だちの発言や動きに関心をもったり、おもしろい場面でクスっと笑ったり、ときには教室に虫が入ってきて、キャーキャーというハプニングもたまにはあったりして、飽きることが少ないのです。

ですから、オンラインの場合は、子どもの興味関心を持続させるための工夫や課題の出し方が必要です。また、宿題の提出の期限やメールによる働きかけなども必要となります。

「双方向」のオンライン授業の場合は・・・、

画面を通して見える児童生徒の様子や表情をよく見ながら、説明はコンパクトにして、児童生徒が発言できる時間を多くとり、他の児童生徒はそれを聞き、全体のものとする。

また児童生徒が学習課題に取り組む過程で、よく思考できる時間配分を考えます。

このような工夫をしながら、試行錯誤してやればいいと思います。

オンライン授業のもつ可能性に期待して、「やってみよう」とチャレンジすれば、徐々に効果の上がるオンライン授業になると考えます。

要するに、学校の学習は、今後、学校の授業でないとできない学習内容と家庭学習で行う学習内容に分けて行います。

ですから、学校の授業と家庭学習をリンクさせ、学習指導要領が定める学習内容を履修するスタイルに変わっていくと、私は考えています。

コップは立っていますか

2020年08月11日 07時47分00秒 | 教育・子育てあれこれ


「おはよう」と声をかけました。
相手が、聞こえていて、目線はあっているのに、何も答えず通り過ぎていく生徒も中にはいます。

いい気持がしないものです。

一方、学校で私が廊下を歩いていて、前からきた生徒が「おはようございます」とか「こんにちは」とあいさつしてくれました。

さわやかな気持ちになります。

あるメンタルトレーナーが言われるには、「心のコップ」が立っていないと何事も成就しないとのことです。

コップは立っていないと水が入りません。

「心のコップ」が立っていないと、自分が伸びるのに必要な水(教えや経験)は入りません。

そして、コップを立てるには、まずあいさつと整理整頓が大切だということです。

柔道でも、相手から目線を外して礼をするのは隙を見せることになります。

真剣勝負であるなら、隙を見せると切りつけられて命を落とすこともあります。

だから、目線を合わせるのは、あなたは私に危害を加えない、命を預けられるだけ信頼していますという意味を表すのです。

それが礼になるのです。

また、大人にもいますが、ポケットに手を入れたまま礼をする生徒は、その態度を改めるべきです。

手のひらを開いて、体の横や前にくっつけて礼をするのは、「私は手に何も武器を持っていません」を示すそうです。

つまり、相手に対する敬意と信頼を表すのです。

このような意味を中学生に、わかるように話して諭すと、よく分かってくれます。

私は、高校入試の面接練習を中学3年生にしたとき、この話をしてあいさつをしっかりしようと話しました。

生徒たちは、「心のコップを立てて」素直に手を体につけて、みちがえるような心地よいあいさつをしてくれました。

言葉を思うところに飛ばす

2020年08月10日 09時09分00秒 | 教育・子育てあれこれ



学校の教職経験から思うことがあります。

教師の
言葉一つで、生徒を励ますことができます。
言葉一つで、生徒を勇気づけることができます。
言葉一つで、生徒をやる気にさせることができます。

しかし、
教師の
言葉一つで、生徒をがっかりさせることになります。
言葉一つで、生徒の心を傷つけることになります。
言葉一つで、生徒の信頼を失うこともあります。

このように、言葉を使うのは難しいのです。

なぜなら、こちらが相手のことを推し量って、考えて発した言葉でも、受け取る側の心理状況や状態によって、伝わらなかったり、誤解されたりするからでしょう。


「言葉は翼をもつが、思うところに飛ばない」
(Our words have wings, but fly not where we would.)

この言葉を、イギリスの女性作家・ジョージ・エリオットが『スペインのジプシー』のなかで言っていました。

このメッセージが伝えようとしていることは、言葉が思うところに飛ばないのだから言うのをやめようではないのです。

教師は、言葉が思うところに飛ぶように熟慮して、言葉を選んで発するべきです。

学校にはスクールカウンセラーがいます。
カウンセラーが生徒や保護者に話す話し方を聴いていると、言葉が思うところに飛ぶように工夫して、一瞬のうちに言葉を吟味して発しています。

さすがだと思うことも多いのです。

第一印象は大切

2020年08月09日 08時36分00秒 | 教育・子育てあれこれ
大学生の就活では、今年からオンライン面接に切り替えた会社が多いと聞きます。

一方、教員の採用のための面接は、今年も対面面接をする自治体がほとんどです。

私は、しばしば教員採用試験を受ける学生や社会人に面接の練習をすることがあります。

そのときよく言うのが、「第一印象を与えるチャンスは、一度しかない」ということです。

「メーラビアンの法則」では、人は初対面の人に出会ったとき、その人がどんな人だろうかという第一印象は、70%は視覚情報から得ると言われています。

もちろん人を「見た目」だけで判断したりするのは適切ではないですし、その人を様々な角度や観点から正しく評価するべきです。

じっさい、面接のときなどは、面接官が質問をして、受験者が答えてくれる話を聴いているうちに、印象が変わってくる場合がほとんどです。

口数は多くはないが、この人が考えて実践しようとしている教育観は確かなものだ。

一見おとなしそうに見えたが、話し出すと力強く論理的に話ができる人だ。

この人なら職場の同僚と良好な人間関係がつくれそうな柔軟性のある人だ。

最初は緊張して早口になっていたが、本来は必要な間合いをとって話すことができる。これなら子どもも安心できるだろう。

このようなに、面接の受け答えをしている間に、印象が変わってくるものです。

そういう意味では、教員採用試験の面接でも、第一印象で受験生を評価することはありません。

しかし、そうであったとしても、第一印象が爽やかで、笑顔で、柔らかい表情であるに越したことはありません。

子どもにとっては、楽しいから笑顔になるのではなく、人の笑顔を見るから楽しくなるのです。

また、服装もとくべつに高価なスーツを身につける必要はありませんが、清潔感があり、節度ある、好感度の高いものを着ているのは当然です。

とくに、学校の先生は児童生徒に服装を指導する立場にあるのです。

ただ、私が教員として、生徒たちに言っていたことは、「第一印象をよくしなさい。それで決まることもありますよ」でした。

この社会には星の数ほど人がいます。一生のうちで、そのうちの何人と出会うことになるでしょうか。

いっしょに仕事をしたり、何度も接する機会がある人だけとは限りません。

一度だけ会って、もう再会することがないのならともかく、数回は会話があり、そこから親しくなる可能性が開けることも多いものです。

人は、第一印象に人は引きずられ、70%は視覚情報で判断するのですから、次の人間関係にまで深まるかは、第一印象が大きいということです。

こんなことを生徒は意識して、にこやかで、オープンマインドで、生活を送ってほしいと思います。








本と向き合うこと

2020年08月08日 07時47分00秒 | 教育・子育てあれこれ
ビブリオ・バトル」という活動をご存じでしょうか。

もとは、京都で始まりました。
出場者がお薦めの一冊を持ち寄り、その本の紹介や感想、考えたことを発表します。

それを聞いた人が、どの本を一番読みたくなったかを多数決で決めるという書評合戦を「ビブリオバトル」といい、いま静かなブームになっています。

また、「ブックカバーチャレンジ」というものもあります。

そもそも、本に書かれている文章は、ただたんに執筆者によって書かれ、印刷されているのではありません。

本に書かれている文章は、執筆者の発する能動的なメッセージを表しているのです。

読者は、一対一で本と向き合うことで、考えを巡らせる。あるいは、感情を動かされたりします。

そうなると、自分の言いたいことや伝えたいこと、共感してほしいことが、ふつふつと湧き出てきます。

考えたことをそのままにしておかず、交流することで、執筆者の経験を追体験したりすることができます。

そして、想像力が高まって自分と同じと感じたり、この点はちがうなと思ったりします。

これを繰り返すうちに、本を読む人の内面が耕され、豊かになります。

デジタル機器が当たり前になり、電子書籍が出回っています。

学校教育では、読書ばなれが進行しているという調査結果も出ています。

いまや、アナログであろうが、デジタルであろうが、とにかく本を読むことが必要で、その感想や考えことを、まわりの人に伝える活動が、人の内面を豊かにします。

子どもたちが、本に触れる機会を大切にしたいのです。

生き残ること

2020年08月07日 07時40分00秒 | 教育・子育てあれこれ
昨日は広島に原爆が投下され、75年を迎えました。

投下され、広島の街は焼け焦げました。

人間も、建物も、動物も、植物も、用具も、あらゆるものが被害を受け、焼け落ちました。

植物でいえば、被爆当時は、「今後70年ほどは、広島に草木は生えないだろう」と言われました。

当時、アオギリは、爆心地から約1.3km離れた中国郵政局(現在の日本郵政グループ広島ビル)の中庭にありました。

このアオギリは、原爆で熱線と爆風をまともに受けました。

枝葉はすべてなくなり、幹は爆心側の半分が焼けました。

ところが枯れ木同然になっていたアオギリは、次の年の春になって芽吹きだしたのでした。

被爆と敗戦の混乱の中で失意のどん底にあった人々に生きる勇気を与えました。

中国郵政局の建替えで、1973(昭和48)年には、広島平和公園の入口へ移植されました。

移植後も現在まで、原爆の被害を無言のメッセージとして伝え続けています。



また、広島では、昨日、「被爆ピアノ」を弾くコンサートか開かれました。

会場は、「被爆アオギリ」の前でした。

このピアノは、爆心地から3キロメートルほど離れた民家にありました。

被爆2世の調律師矢川満典さんが修復しました。

ピアノの側面には、爆風で飛び散ったガラス片の傷が残っています。

このピアノは、朝の平和記念式典でも使われ、高校生の平賀小雪さんが、ピアノソナタを弾きました。

広島の街には、ピアノソナタの旋律が、人びとの心に安らぎを与えました。



おびただしい数の人が原爆の犠牲者となるなか、甚大な被害やダメージを受けながらも、生き残ったものもあるのです。

私たちはこの奇跡に驚くとともに、その生命力を感じざるをえません。



このような事実を、いまを生きる子どもたちに伝え、平和を希求する人に育てる。

学校教育に関わる教職員ならびに教育関係者なら、このことを願わない者はいないと、私は考えています。






いま必要な授業

2020年08月06日 17時31分00秒 | 教育・子育てあれこれ

いまの小中学校の授業では、児童生徒の学習意欲を上げ、思考力・判断力・表現力を高め、課題を解決していく力を育てる方向に向いています。

 

そのため、保護者のみなさんも授業参観等でお気づきかと思いますが、グループ学習をよく行います。

 

「それでは、いまから班になって、話し合ってください」

 

実際、私が各中学校をまわって、授業を見ていても、グループ学習の時間を設けることが多くなりました。

 

少し専門的な話になりますが、授業の真ん中あたりで、教師があらかじめ用意した「主発問」を子どもに投げかけます。

 

そして、その「主発問」について、各自で考えを巡らせ、それをノートやプリントに記入します。


これをもとに、グループのなかで、自分の考えや意見を出し合います。

 

そのため、「では、いまからグループで話し合ってください。あとで話しあったことをグループごとに発表してもらいます」という教師からのおきまりの指示が入るのです。

 

ある中学校の授業で、こんなやりとりがありました。

 

「男女が対等に共に生きていく社会にするために、自分はどのようなことができるか」。

 

ある女性の手記をクラスで読んだ後、このような「主発問」が教師から出され、グループでの話し合いが始まりました。

 

「自分にできることからやっていく」

「妻がやっている洗濯を、夫が全部やればいい」

そのうちに「お父さんが、お母さんのかわりに育児休暇をとる」

その考えを受けて、一人の女子生徒が

「私たちが男の人が育休をとるのを啓発するチラシを作って、全家庭に配る」


そうすると、「そんなん、ムリや!」と男子が一蹴しました。

 

まわりからのフォローもなく、その子はそのあと黙ったままでした。

 

そして、そのグループからの発表では、その子の提案や意見はまったく反映されないままでした。

 

じっさい、このような授業も多いのです。

 

なんのためのグループ学習、班での話し合いなのかという感想を私はもちました。

 

 

グループでの話し合いは、一人ずつの考えを聞き合い、共有し合い、それらを受けて自分の考えをさらに深め、考え方の精度を上げるために行うのです。

 

それを発表し合うことで、さらに自分の考え方を深め、学びを深めるというように、最後は自分に返ってきます。

 

その過程の中で、他者の考えや意見を尊重する態度も身につきます。


そのような話し合いができるためには、学級集団が、友だちの言うことを聴きあう仲間関係が育っているかということも問われてきます。

 

すべての考えを交流し合い、グループでみんなが納得できる合意をつくっていく。

 

クラス全体でそのような学習活動ができるなら、必ずしもグループにならなくてもいいのです。

 

生徒一人ひとりが発問に対して、高い意欲で学習に向かい、次々に発表して、対話しながら考えや意見を交流でき、そのことで一人ひとりが深く学ぶことができるのなら、グループでやらなくてもいいのです。

 

そういう授業は、ダイナミックな子どもの学びが生まれ、教室全体が揺れながら思考を深めていくことができます。

 

まして、今は新型コロナウイルス感染防止のため、4人ほどで机を合わせて話し合うことは避けなければなりません。


授業は「カタ」からはいるのではなく、中身として子どもが何を学べるかで構想してつくるものです。


カタから入ると「かたなし」です。