畑の草刈りをしていると、今の時期、ドクダミの葉が伸び始めている(白い花は、まだです)
傍で咲いているピンク色の花は、何という名前なんやろね? 三つ葉の花に似ている気がする
朝ドラの主人公が「どんな花にも名前がある。雑草も意味があって、そこに咲いている」というようなことを説いていました
♪ 野に育つ 花ならば 力の限り 生きてやれ ♪
畑の草刈りをしていると、今の時期、ドクダミの葉が伸び始めている(白い花は、まだです)
傍で咲いているピンク色の花は、何という名前なんやろね? 三つ葉の花に似ている気がする
朝ドラの主人公が「どんな花にも名前がある。雑草も意味があって、そこに咲いている」というようなことを説いていました
♪ 野に育つ 花ならば 力の限り 生きてやれ ♪
「手術して治る病気ではなく、手術してからが病気との闘いになります」
生後87日目の次男を執刀してくださった東北大学医学部附属病院の教授は、額の汗を拭きながら・・そう仰った
「手術して治る病気ではなく」とは、今更ながら「とても残酷な言葉」だと思う
それでも、次男は38歳10ヶ月まで(胆道閉鎖症としては)長生きした!
次男が生まれた盛岡の病院の産科医師は「黄疸とレバーのような便からして、たぶん、胆道閉鎖だと思う。手術はしないほうが良いと思う、予後は良くない(可愛い盛りに亡くなることが多い)医者なんてもんは、上手くいった(成功した)事例しか発表しないんだから」と諭した
私と夫の仲人の、榊〇〇荷〇社の宮司は「何も分からない幼い頃ならいざ知らず、成長して、これからって時にダメになってしまうことほど惨いことはない」と、同じく手術に反対だった
「本人にとっても辛いし、母親にとっても、こんな悲しいことはない」と・・・
しかし、手術したからこそ、次男は尊い人生を送れたんやと思う
2回の手術や、痛い治療、検査なども沢山あったけど・・小学校4年生から38歳頃までは、何事もなく普通に日々を過ごせたのやから!
沢山の友人達にも恵まれたし、旅行にも行ったし、好きになった女性もいた(#^^#)
私にとって、次男は「福の神」であり、青い鳥のように・・沢山の幸せを与えてくれた!
熊野・七里御浜に咲くハマヒルガオは、本当に小ぶりで上品な淡い薄紅色
前浜とか隣の千代崎海岸に咲くハマヒルガオは、少し大きくて・・
花びらの色も、濃い!
読み終わってから、もう1度、ゆっくりシッカリと読んだ『こどもホスピスの奇跡』
『イギリスの施設は、子供の死後も二年間ぐらいはビリーブメント・ケアを頼める』
『日本には、まだまだ、こうした考え方がありません』
『家族を失うということは想像をはるかに超えた悲しみであり、その先には多くのことが待ち受けている』
次男が手術・検診を受けた東北大病院も、2歳から38歳10ヶ月もの長きに渡って手術・治療・検査で通った三重大病院も、次男が旅立ったら「それでおしまい」です
ひとりの患者が旅立っても、何事もなかったかのように直ぐに「いつものように動き出す」
号泣の日々の中、私と共に歩んできた高校時代の友人グループさえ「音沙汰なし!」
(高校時代のソフトボール部の友人達は訪問してくれて、グループラインを作ってくれた)
私は、スマホで「グリーフケア」を検索し、様々な哀しみを共有した
心が壊れそうで・・もうダメかも知れないと思ったことが何度もあったけど・・
ブログに書くことで、平常心を何とか保ち・・ブログ友達に何度も助けてもらった
前を向いて「次男と共に生きてゆく」という心境になれるのは、何年後?
今日は、次男の月命日 菊の花を買って、お墓参りに・・
先日買った『こどもホスピスの奇跡(短くとも、深く生きる)』を全部読み終わった
本にも書かれていたように、日本中に民間の子どもホスピスが設置されることを懇願したい
日本は島国で、鎖国していた時期もあったから・・先進国の中で凄く遅れているのかな?
大阪、横浜などの都会では、早くから良い施設があったけれど、三重県は遅れていると思う
『カナダの小児病棟では、家族や親族による面会制限はなく、いつでも好きな時に会いに行ける』
『(日本では)24時間付き添いを入院の条件にすることで、親に子どもに対する細々とした雑務を任せている』
40年前、次男が手術・治療などで長期(本当に何ヶ月もの長い間)に渡って私が付き添いをしていたので、長男には凄く寂しい思いをさせた
長男を預けて病院に向かう時「お母さ~ん!お母さ~ん!」と、幼い長男は大声で泣いた
せめて、夜だけでも付き添いをせずに、家に帰してくれたら良かったのに!
そうすれば、母親も入浴できてグッスリ(?)眠ることができたかも知れない!
家族崩壊もせずに済んだかもしれない!
「若いお母さんは、付き添いの苦労ができていない」と叱られることもなかったかも?
8日の七里御浜で、初めて釣れた魚はチヌ(黒鯛)
美味しいグレは殆ど毎回釣れるんやけど、チヌを釣ったのは初めてやったから嬉しい♪
波打ち際に高そうな昆布が流れついたりしてた(チヌも昆布を捕食している)
約10年前に(長男からの母の日のプレゼントで)鉢植えのミニバラを送ってもらった
可愛らしい小さな白い花やピンク色の花が咲いて、その花を楽しんだ後に地植えしてみた
それが、今や増えに増えて・・賑やかな花壇の主のようになっている
今年も芍薬の花が咲き始めている 赤い芍薬は、まだ蕾
昨日、〇メリ書房で買った本『こどもホスピスの奇跡』は、四分の三ほど読んだ
『死は敗北ではない』と記されていた
「何が何でも子供の病気を治そうという、一辺倒ではなく・・
もし助からないとしたら、残りの時間をどう使うべきなのか」と!
次男の誕生から小学校卒業までは、生まれ育った盛岡の街に例えて『不来方の青い空』という日記名で、私が三十代だった頃に原稿用に66枚書いてあった
(次男が2度の手術・数々の入院治療から解放されたのは、小学校4年生になってから)
元気に過ごせた中学校時代や高校時代のことは、最近、思い出しながら書いてみた
就職してからの日々、36歳までの普通の日々も、最近、書くことができた
次男が好きだった「賑やかな大阪の街」には、何度も共に行った 名古屋にも出かけた
33歳の頃から、黄疸の数値が高くなったが・・次男は「治療して長く生きる(肝移植をする)ぐらいなら、好きな人生を生きて短命を選ぶ」と!
胆道閉鎖症の合併症で急性骨髄性白血病になってしまったのは、38歳6ヶ月の時
ビダーザ治療の入院の前に「大阪に行きたい!」と言うので、大阪在住の妹に連絡して、三人で大阪の美味しいもの巡りをした
コロナ渦だったし、三重大病院の医師には「勿論、内緒で」出かけた
『大阪のお好み焼き店・はつせ』にて、次男と私
(次男は、馴染みの店のオーナーや友人たちへの御土産も沢山買った)
ビダーザ治療後、次男は「自宅で過ごしたい」と言うので、その通りにした
週に2度の三重大病院への通院(輸血など)や、白血病の闘病生活は言葉では言い表せない!
だけど、その自宅闘病中、次男は何度も友人たちとの楽しい会食の時間を持つことができた
馴染みの店のオーナーが「旨いものを食べに行こう」と、次男を連れて行ってくれたり・・
送迎する私の車に乗り込むときの次男の「嬉しそうな顔」(#^^#)
週に2度の通院の帰りには、次男の好きなものを食べにレストランや寿司店、焼き肉店にも入った
(自宅闘病は、三ヶ月半続いた)
あれほど嫌がっていた病院に「入院する」と言った二日後、三重大病院で次男は旅立ってしまった
幸いにも私の付き添いが許されたので、二昼夜、椅子に座って次男の世話をすることができた
明るく賑やかに生きて頑張った次男を見習い、私も元気に楽しく生きやなあかんとは思うけど
中々・・・1年3ヶ月経っても・・未だに涙がこぼれる
買い求めた本
インターネットニュースで知って、直ぐに『〇メリ書房』まで愛車で走った!
次男の38年10ヶ月の人生を思いながら、考えながら、ジックリと大事に読んでいる
次男の馴染みの店のオーナーが長年のファンで、コロナ渦前にはコンサートに連れて行ってもらった思い出が!
その際に、次男はグッズ(リュック・帽子・バスタオル・CDなど)も購入
今も、大事に、しまってあります
本日、再放送が行われていました(こないだも観ました)