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日本橋交差点から中央通りを散策して日本橋を渡り、三越本館前まで向かいます。この日の日本橋界隈の金融街は祝日だったので人通りも少なく、閑散としていました。
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コレド日本橋の商業施設入り口から撮影した日本橋です。銀座方面から日本橋までまっすぐ南北方向に伸びてきた中央通り(国道15号線)ですが、日本橋の手前付近で緩やかな左カーブを描いているのが解ります。
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午前中の早い時間帯の散策だったため、日本橋の手前側を通っている中央通りは、大通り沿いの高層ビル群の影の中に隠れてしまっていました。
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日本橋や都心環状線の高架橋の奥には、三越百貨店本館の新館や日本橋室町二丁目地区に建設中の高層ビル群が見えてきました。半年ほど前と比較しても、高層ビル同士の密度が深くなってきています。
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日本橋の南側にある「日本橋南詰交差点」にやってきました。都心環状線の高架橋の真下を北方を流れている神田川から分流した「日本橋川」が流れていて、その上に「日本橋」が架橋されています。
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日本橋は日本の道路元標があり、日本の道路網の始点となっています。橋梁としては現在19代目にあたり、石造二連アーチ橋で橋の長さ49メートル、幅27メートル、設計は米本晋一、装飾様式は妻木頼黄、装飾制作は渡辺長男によります。
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都心環状線の高架橋の後ろ側に見える建設中の高層ビルは「(仮称)室町東地区開発計画(2-3街区)」と呼ばれていて、高さ116メートル・地上22階地下4階建てのビルが2013年12月に竣工予定となっています。
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日本橋南詰には「野村證券本社ビル」建っていて、この建物は野村財閥の中核として大阪に本店を置いた野村銀行の東京進出の拠点となる建物として計画され、1930年(昭和5年)に竣工しました。
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日本橋地区に隣接している日本橋本石町地区には日本銀行本店があり、少し下流側の日本橋兜町には東京証券取引所があることから、日本橋界隈には全国の銀行や証券会社の店舗やオフィスが密集して集まっています。
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何気なく都心環状線の高架橋の真下を歩いただけでは、この場所に日本橋が架橋されているなどとは気が付かないほどです。
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日本橋の全景を南詰から撮影しました。石造りの2連アーチ橋の風格ある道路橋のデザインなのですが、正面から見ると全くそれに気が付きません。
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日本橋が初めてこの場所に架設されたのは、徳川幕府が開かれた慶長8年(1603年)と伝えられています。日本橋から伸びている「五街道」は1601年(慶長6年)に徳川家康が全国支配のために江戸と各地を結ぶ以下の5つの街道を整備し始め、四代将軍家綱の代になって基幹街道に定められました。
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整備として一里ごとに一里塚を設けたほか、一定間隔ごとに宿場を用意します。東海道、日光街道(日光道中)、奥州街道(奥州道中)、中山道、甲州街道(甲州道中)の順に整備されました。1659年(万治2年)以降は新たに設置された道中奉行の管轄に置かれました。五街道の正式名称が定められたのは1716年(享保元年)です。
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江戸から大阪まで結ぶ「東海道・京街道」、日光東照宮までの「日光街道」、東北地方へ向かう「奥州街道」、群馬県の高崎や長野県の軽井沢、伊那谷を経由する「中山道」、甲府盆地を経由して中山道の下諏訪で合流する「甲州街道」の五つです。
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都心環状線の高架橋には「日本橋」の銘板が打ちつけられています。以前は薄汚れていたのですが、綺麗になっていました。
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3年前の2010年には架橋100周年(2011年4月)を記念し、洗浄再生する『日本橋クリーニングプロジェクト』を11月1日から12月8日まで実施されていました。
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