思い込みが障害となって、東北大震災のお年寄りの避難が遅れて・・・亡くなった方が問題となったが。
「今まで津波が来なかったのだから、自分はここに居て安全だから逃げない、ここにいる」と言うお年寄りを説得して歩いて亡くなった消防団員の悲劇も聞いた。安全であるかどうかの「思い込み」はとても危険だ。お年寄りにとって「思い込み」は日常的に生活の中に形成されている様に思うが・・・・違うだろうか?
いきなりブレーキを踏んでいるつもりで、アクセルを思いっきり踏んでしまうのも・・・・一瞬の思い込みから抜け出せない事故だろう。いや自分が悪いのではない・・・車が故障していたのだとか言っていた者が収監されている。人身事故も店を壊すのも同じ原因だろう。「一瞬の思い込み」なのか「単なる間違い」なのか?その時の状況によって異なるかもしれない。
私も、もう年寄りであることは否定できなくなって、ちょっと悲しくなっているが・・・・自分「思い込みについて」考える必要がありそうだ。アクセルとブレーキの踏み間違い事故は年齢が年寄りの特性ではなく、若い人にも多く認められるそうだ・・・・が、安心できない。自分がどれほど注意深く生活しているかの方が気になる。昔ニュールンベルグでお世話になった仕事仲間のご両親の所に挨拶に行ったとき、94歳の(医師)先生がホテルまで送ってくださったが、奥さんは「大丈夫よ、注意深い人だから」と私を安心させてくれた。確かに安全運転であったし、当時ドイツでは年寄りだからといって運転免許を返納するなどと聞いたことは無かった。
ドイツ人は日本人よりはるかに頑固だから「思い込み」も激しいと思ったのだが。ちょっと一般的な日本人と比べると「自分の生き方に、一つ一つの考えが無いと納得しない」国民性が強い。感情的に行動が支配される者が少ない点は大きな違いだろう。
だが自分はドイツに学んだころから、かなり理屈っぽく、自分の考えに頑固に論理的合理性などを求めてきたが・・・・実は頑固で思い込みが激しい者として、周囲から煙たく思われていたかも知れない。自分はそれでもいいだろうと貫いてきた。西馬込にいる頃、何時も行く飲み屋で「河口君は唯我独尊だねーー、悪い意味じゃないよ」と言われて、仏陀が生まれて直ぐに「唯我独尊」を唱えたという話からの例えで、「自分を大切にする」生き方であることは間違いなかった。
「自分を大切にする」ときに必要なのは、一方に他人がいるということで、相対的に論理的合理性があるかどうかが選択(意思決定)の基準であった。が、しかし自分に「とんでもない思い込み」が無いとは言えなかっただろう。
年寄りは経験の範囲内でしかものが見えなくなる。日頃から職人が自分の経験の範囲から抜け出せずに技の限界を作るのと似たようなものだ。「思い込み」が働いているのだろう。
自分が最も大切にしている「自分の芸術」について、言葉で表すのが大変困難で、絵を描いて見せるしかないが・・・・自分の思いについて十分に表すことは出来ないでいるから、表現様式を作ってその中に閉じこもることはない、しかし他人から見ると、これっといった表現の完成を感じないから、理解しがたい中途半端な絵を描いていると思われるだろう。まあ、死ぬまで何とかしよう・・・と思っている。これがいけんちゃー!!