備忘録は「忘れないための記録」だと思うが、私にはそうには行かない事情があった。
私は何か書けば、「思い」が優しい出来事として、しばらく遠のくと思えたのだが・・・いまだに思い出すと「腹が立って、殺してやる」と興奮し、眠ることも出来ない日もまだある。
いや、もうこれを最後にしたい。思い出して書いても、時系列に並べられないので、読んだ人は取り止めがなく混乱するだけだろう。
私が国立西洋美術館在籍中に最も心血注いで完成させた仕事を「まったく無にされた」ことをここに書いておかねば気持ちが許さない。
西洋美術館は1993年には、前庭の地下に展示室を作る計画が始まった。これは大変な事業であって学芸課にとって誰もが気を許されない期間となった。しかし学芸課の美術史を専門にし、日頃から展覧会をさせられている者達にとって大変大事なことで、油断が出来ないことだった。というのもまず何のアイデアもなく、どのような事業を行うか、展覧会だとするとどんな展覧会が出来るのか想像も出来なかった。だから取り合えず、プロット図を作ってみて、展示室の概念を話す第一回の建築会議を開催したところ・・・・会議には、また前川設計事務所から番頭の00(突然名前を思い出さない:その後、思い出した=永田と言う名前)が居て、建設省関東地方建設局(国立の施設を作る場合必ず建設省の地方建設局が担当する)の部長、館から学芸課長、庶務課長施設設備係、学芸課員など雁首揃えていた。会議の冒頭で館が用意したプロットを紹介すると、前川の00おやじが「こんなもの、何の役にも立たない」と突然ぬかしよった。私は「なんだ!!こんなものとは!!」と怒鳴りつけた。「お前らは自分たちは芸術家だと思っているようだが、違うだろ!!建築屋なんだよ!!」と罵倒した。こんな失礼なことは、まるで初対面で見ず知らずの人物に言うべきことではなかったが・・・。その00おやじは「いや、違う!!」とうなり返した。
そこで私の右隣に座ていた若い越川倫明が「こんなのやっていられるか!!」と立ち上がり椅子を蹴飛ばして会議室から出て行った。その次は左隣に座っていた幸福輝が「こんなもの・・」と言って、また椅子を蹴って出て行った。私は「話にならないから会議は無しだ」とやはり立ち上がり・・・椅子は蹴らなかったが・・・出て行った。(ウッシシ!!やったど!!)
学芸課長の雪山行二に後で聞いたら「おおー、建設省の部長が「この美術館には元気な若い人が多いですな」と言って帰って行ったと。これが前庭を掘り起こして地下に展示室を作ろうという計画の始まりだった。私は日頃から頭に来ていた、00オヤジが担当した新館展示室のひどい造りに一矢報いてやったと喜んでいた。
新館建設で建築デザインから、空調は展示室の壁上部から吹き降ろすようになっていて不均一で調整が利かない。天井からの採光は丸い穴が開いていて、そこにカメラのシャッターのような開閉器が付いているが、自然光の性格を研究したことのある人は御存じだと思うが、真上から小さな穴で光を当てようとすると光の色温度は高く、光量は不十分で短波長の冷たい光しか来ない。日中からして人工照明が必要になる。だが自慢するに壁に光量センサーがあり、壁の照度が180ルックス以下になると人工照明として用意されたタングステンランプが突如点灯する。入館者はびっくりする。しかも見ている絵が温かい色でいきなり照らされて、それまで見ていた色が変化するのに驚く。照明システムは各部屋ごとに独自の問題があって書ききれない。、果ては壁の断熱(室内温度がなかなか上がらないから壁がむき出しの所を調べたら、設計図より50%減になっていた)に至るまで不具合があり、また天井から自然光を取り入れてシャッター穴から採光するシステムはガラス天井からシャッターのある天井までがらんどうであるが夏場は人も入れぬほどの暑さになるが、なんと換気が出来るようになっていなかった。
担当した当の00オヤジが何が何でも、自分たちはこんなに素晴らしいことをしたと自慢するから「くそ」だと言ってやった。美術館が作品の展示だけでなく保存に注意しなければならないという認識が欠けて、建築設計されてはたまらない。
取り合えず、あの00オヤジは抜きで、建設省、前川設計事務所、西洋美術館とで建築会議が行われるということになった。そこで館側の代表として、新しい地下展示室の基本構想に、既にある本館・新館とどのように機能させるかのアイデアをぶち上げた「私」が代表として加わり「基本構想」を前川と建設省の技官に諸元表(構想の元となる条件を書いた評)を作り毎週議論を始めた。美術館は上野の山の上にあるが、地下深く掘れば、25mで「不忍池」の水位となり、基礎杭を打てば工事中に漏水することも配慮しなければならなかった。従って展示室の屋根の上が直接むき出しコンクリートになることになった。要するに土をかぶせるだけの余裕があれば芝生や植栽で庭としての魅力は一段と違っただろう。ここに前川の知恵が必要だったが、何の知恵もアドバイスも無かった。
我々は新館の地下収蔵庫新しい企画館との連結、本館と新しい修復室との連結・・・こうした連絡が上手くいくことは非常時の対応には不可欠であり、いかに短時間にアクセスできるかであった。
前川・建設省との会議で問題となったのは、展覧会を実施するうえで借用する相手館から要求されるアグリーメントの条件に「厳しい温度湿度基準」があって「恒温・恒湿」つまり基準値から変化のない温度湿度を保つことが求められた。そこで私は「温度22℃±1℃、湿度53%±2℃」となるように空調機材の機能基準を求めたのである。そしたら建設省の若い技官が「建設省基準、労働省基準では室温は26℃、湿度は65%前後となっている」と言い出す。なんとこれは事務室基準である。「この基準では施工できない」などと突っ張るから「この温湿度基準は海外から美術品を借用するのに求められているもので、実現できなければ今回の企画展示館の工事そのものが無意味だ。展覧会事業に支障が出て損害が生じたら、貴方たちで費用が弁済できるのか!!」とうなったら,向こうも折れた。「しかし建築費用の振り分けがあって・・・空調機器関係が26億円に膨らむ」とかいってくる。要するに前川が建築関係で「外観で遊べる費用」が減ることが不満であった。このことで前川は私の修復室の空調配管が天井にむき出しな成るとか、修復室の北側の窓を足元まで広くとってあったのを「腰」まである高さに変更していた。これは後任で来た施設係長が前川に言われて変更したと判明。この男はまた他にも問題を起こす。
さて前庭に大きな穴をほるのに、前庭に展示してあった全てのロダンとブールデルの彫刻を工事中は撤去移動しなければならなかった。これが後日トラブルの元となる。小さな彫刻は台車に載せて車庫に保管。問題は《地獄の門》で庭の東にコンクリートの背面支持体から(《地獄の門は》20のパーツからなり彫刻全体を裏面で鉄骨の枠と繋いであった)外して、隣の科学博物館との間にある隙間に屋根を付けて保管することとなった。しかし相手は20トンからある重量物であるから、背面支持体から取り外すのにも工夫が必要で、一時的に吊って台車に載せて移動する方法がとられたが、吊るのに(昔、鋳造後に彫刻をつないでいる鉄骨の上部に吊りしろが残っておりこれを利用することとなったが、全体の吊バランスが不明であって、組み合わせた20のパーツに何らかの影響が出ることを恐れて、別途、彫刻全体を枠で固定することを行った。枠との接点には鉛を型取りして柔らかく当たるようにした。こうした知恵は当時色々アドバイスをブロンズ鋳造の(有)ニッチのメンバーにもらった。
こうしている間に母が脳腫瘍で入院していたのが12月24日に亡くなった。亡くなる年には年に8回岩国の実家に車で帰郷していたが、亡くなる前日病院に母を見舞ったとき、別れ際に、母は私に手を差し伸べて何か言おうとしていた。「お母さん、苦しいね!また明日来るからね」と言って掴んでいた指を振りほどいた。このことを思うと心苦しい。翌年の三月にはロンドン大学へ客員研究員で出ることが決まっていて、無神経な父が「来年は、お前はロンドンだしな」と病床の母の横で話すなどするから・・・母は気を利かせて、亡くなったと思った。
母の四十九日の法要と重なるように1月17日に阪神淡路大震災が起きた。新幹線も中国道も被害があって、結局、震災の二日後に車で東名から北陸自動車道で厚賀まで行き、下道の原発道路を大渋滞の中、舞鶴まで走って舞鶴吉川道路から中国道へ入って岩国まで帰った。東名はもちろん、吉川で中国道に乗ると、消防車、自衛隊、工事車両、電柱などを運ぶトラックと出会った。こんなときに母の四十九にとはいえ、邪魔をしているようで申し訳なかった。
東京に戻るとゲッティからの災害救援の申し出があって、国立美術館として、全国美術館会議として何をどうするかが求められてから、こういう時こそ皆で自覚をすべきだと「文化庁災害派遣」に結びついたのは以前書いたと思う。この経験があったからこそ、地震災害について学び、前庭の工事が終わった時には、すべての彫刻は免震化されるように計画した。
そして私はロンドンに旅経つ前にぎりぎりまで、前庭工事の建築委員と神戸の震災救援活動に従事していたが、3月15日までに出発しないと「監査」があって処罰されるというから、仕方なく出かけた。そしてロンドンの下宿を決めてテレビを購入(この時点で視聴料金を払う、その後BBCは国営だからとNHKのように視聴料を払わないと訴えるなどとは無かった)して見ていたら、なんと私が通勤に利用していた地下鉄で毒ガステロが起きているという放送。築地本願寺の広場に被害者が横たわっている場面は恐ろしかった。何というタイミングだったのだろうか。
下宿にファックスを導入したら、来るは来るは・・・ロール式だから毎日3m。多い時は5mもあった。すべて建築工事関係で了承を得るもの・・・。コートールド研究所の図書室から帰宅すると、その対応で夕方の時間は潰れた。折からイギリス国内は「狂牛病」騒ぎで、スーパーからブリティシュ牛肉が消えて、アイリッシュとスコティシュの牛肉が残った。実は消える前のタイミングでブリティッシュを食べてしまっていた。恐ろしや!!たった1回たべて発病した若い男性が居て・・・・帰国したとき「牛肉食べた人は何年か献血禁止」だと・・・「貧血なので献血しませんです」。
あれほどファックスで建築委員を続けていたが、留守中にやはりトラブルが起きていた。私にとって大事なのは帰国後に始まる前庭の彫刻の様々な免震化工事であった。
帰国したら既に前庭の穴はコンクリートで塞がっていて、《地獄の門》はむき出しで庭の東側に南に裏面をむけて、なんと何も雨除けなど無く放置されていた。前回科学博物館との隙間に安置した時は移動のための枠の中にあって、持ち上げてローラーを入れれば再び動かせるようになっていたのに、動かす時は決して吊らないようにと言ったのに保護なしに吊っていた。というのも運搬路に当たる箇所に「先に空調吹き出し口」をコンクリートで作っていて、壊すと面倒だから「吊った」というのである。この馬鹿野郎と怒ったが時すでに遅し、ブロンズ彫刻は頑丈なようでそうでもない。外力が加わって簡単に捻じ曲がる。だから決して吊ってはいけないと言ったのに。あの後任で来た施設係長は作品より工事日程を優先した。そりゃ私に与するより、前川や建設省に与するのが得だと思うだろう。しかし結果は20のパーツの組まれた継ぎ目に隙間が出来て雨水が入るようになってしまった。当時西洋美術館の《地獄の門》はルディエ最後の砂型鋳造で最低でも40億円はすると思われて、あの施設係長がやった不始末は分限処分にすべきだったろう。その雨漏りする隙間だがニッチの西ヶ谷さんが調整してくれた。
前庭の彫刻の復旧には私一人の力ですべきことではなく、今後の美術館の庭として、上野公園事務所からの「公園緑化に協力を」などの要望もあり彫刻係の高橋明也と調整することになった。彼は彫刻の免震化には興味がなかったが、前庭の緑化には、得意の「園芸趣味」が生かせると、真剣に考えてくれた。
しかし保存修復担当者の役割を理解する者が学芸課に居ない限り、私は「大きい声で、はっきり主張していかねばならなかった」がやはりこの国では「はっきりものを言う者」には集団の嫌がらせが待っていた。
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