河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

絵が描けない時のいたずら描き

2021-03-13 10:34:50 | 絵画

絵が描けない時、つまりスランプは制作欲が失われて何もしたくない時や、描きたくてもイメージがまとまらない時と言えるだろう。そういう時は「絵食同源」と言い訳して「食い意地」に逃げて気を晴らすと書いたことがあるが、後者の描きたくてもイメージがまとまらない時は自動書記のようにいたずら描きをすることにしている。

要するにイメージ全体がまとまらない以上、作品的な完成度は得られないから、最初から気を張らずにいたずら描きをすることにしている。そうすれば作品のどこかの部分として成立する小さなイメージが具体化することになる。

静物画、風景画、人物画のように、そこにある原物を写生するのと違って、構想画は「全体的に関連性のあるモチーフの持ち込み」が必要で、そのバランスで完成度が生まれる。そうすれば鑑賞者が見るときに全体を安心して眺められる。

しかし、関連性が無いものが雑多に登場すれば見る人は混乱し、何が言いたいのか分からなくなる。現代アートはこれが多い。一目見て「感じ取れる」だけの世界がそこに存在させられていないとみる人は「何を表現しているのか考えてしまう」観念的な鑑賞になってしまう。現代アートは更に「何が言いたいのか伝わらない」と「言葉で説明」するから、余計に分からなくなる。目に入るものを言葉に置き換えると、感じないものを無理やり言葉で納得させると本来あるべき芸術性とは無関係になる。

こうしたことを起こさないように制作することは、情報過多で観念的な生活が常態化している今日かなり難しいが、とにかく何をどうしたいのか自分の考えや気持ちを視覚的に表してみるしかない。それが「いたずら描き」だ。

まずは楽しみながら描いてみることで、自分のイメージのレベルの低さから反省も出来るし、面白さと出会えば妙に自己満足もある。その積み重ねで一つの画面全体のイメージを充足させれば一つの作品に向かって制作が始まるから。

何となく分かります?


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