河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

美術品のための温度と湿度

2017-06-11 11:00:42 | 絵画

夏の展覧会では展示室が寒くて不快に思った人が多いだろう。西洋美術館在職中に来館者の苦情で、よく悩まされた。仕方のない話であるが展覧会の展示室は来館者のためにあるのではなく、展示品の為に環境が設定されているのだから。

美術品の保存環境の温湿度はヨーロッパ標準で温度20~22℃、湿度50~55%である。欧米から美術作品を借用して展覧会を催している西洋美術館としては、この数字が基本になる。これらの基準を守らない限り、西洋美術の展覧会はできないと覚悟して、来館者の苦情をかわそうとしてきた。企画展示を行う地下の展覧会専用展示室の温湿度は設計段階で厳しく注文を付けて、いい加減な建設省の担当者に「将来海外の美術館からクレームが出て、展覧会が出来なくなったら責任を取らせるぞ」と脅して、建築費の三分の一を設備費に回させた自慢の空調設備は、何とも忠実に設定温度湿度を実現できている。20~22℃であるなら、設定は21℃である。湿度は中間の53%で、温湿度記録計は真横に線を引く。しかしこの国の夏はヨーロッパの平均気温と湿度に大きな違いがある。暑い最中に屋外から展示室に入れば体がショックを起こして美術鑑賞どころではなくなる。だからと言って昔のように人のための冷房と暖房にするわけには行かない。そこで試しに温度を1℃上げてみた。何とたった1℃上げただけで苦情が激減した。他に来館者の理解を得るために「展示室内は作品保存のため温度を下げ暗くしてあります」という表示を出した。

この国の人々には、古来より「忍従」という性格が備わっているのをご存じだろうか?「仕方がない」「いちいち苦情を言うのは面倒だから、我慢しよう」という国民性である。政治社会に問題があっても大半の人が我慢しているのは良くはないが・・・・。

私が西洋美術館に任官したのは1990年だが、当時まで来館者のための冷暖房しかやっていなかった。つまり来館者が滞在する9時から5時までの8時間だけであった。当時のこの国では美術品に温度湿度がどれほど影響を与えているかなど、ほとんど考えられていなかった。

(湿度には「絶対湿度」「相対湿度」と二つあるが、絶対湿度はある一定の空間に含まれる湿度の量を表し、相対湿度は同じ空間の同じ絶対湿度であるものが、温度が変化することで含まれる湿度の量が異なるので「相対」という名前になっている。我々が生活する環境では相対湿度を用いる。)(冷暖房は誰にも理解できると思うが、俗に言う「空調」とは「空気調和」の意味である。空気調和するには温度と湿度を調整した空気(雰囲気)を作れる必要がある。機械的に外気に除湿や加湿を行って求める温湿度を作り出す。美術館の場合では過失に使う水はカルシウムなどの不純物を取り除いた「純水」に近いものが使用される。また、外からの空気や来館者の多い展示室からの空気を再度循環する場合は、フィルターを使って埃などを除去する機能も付けられる。最近ではNOx(自動車の排気などに含まれる窒素化合物)を除去するフィルターも付けられる。

西洋美術館での私の仕事はまず24時間空調を実現し、安定した温湿度の保存環境を整備することであったが、学芸課の先輩たちは欧米から美術品を借用する度に厳しく保存条件を突き付けられたので、少しは理解があったが、運営予算の問題だった。24時間の空調予算を要求していなかったために、新たに予算要求するのに事務方は渋ったのだ。作文をして修復予算、保存対策予算として得た新しい予算を生活費に使っててしまう庶務課であったから、館長の号令が必要だった。それが実現したのは、やっと93年になってからである。その時すでに築25年を過ぎた新館の空調機を取り換える計画も同時進行するために、新たな条件に見合う機械の設計と予算要求とが出来る担当者を招聘してい欲しいと庶務や館長に懇願していいたところ、幸いなことに修復室の空調設備を工事してくれた㈱アイハラが推薦してくれた、南極の極地研究所で環境を研究してきた野崎氏を獲得できた。これが大きかった。彼は8時間空調から24時間空調に移行しても僅か20%の追加費用で実現できることを突き止めてくれたのだ。彼には今でも感謝している。彼のお陰で、館長を説得し、24時間空調が出来て、欧米の美術館にやましい気持ちを持たずに済むようになったのだ。・・・・で来館者からの苦情の問題はは後のことだった。

何故、それほど温湿度にこだわるのかと言うと・・・。温度が高くなると物質の劣化を起こす化学反応が進むことはご存じだろう。プラス湿度が高い、あるいは低いで化学的また物理的な変化ももたらすのが有機物質だ。多くの美術品はこの有機物質の塊であって、日々分解、消滅のプロセスにあるのだ。古人の言葉に「形あるものはすべて滅ぶ」というのがあるが、この自然の法則に逆らって、滅び行く美術品の保存は将来の人類のための遺産であるという考えが根付いてきて、科学的な理論に基づいた保存の理念が出来上がってきたのだ。(我々の環境にも「地球温暖化はフェイクだ!!」という馬鹿な大統領がいるくらいだから、抵抗勢力はいつでも、どこにでもいるが・・・。)

科学的な理論での裏付けは、時代の流れでは不可欠の要件になっている。まず油絵を構成する材料についての温湿度の影響について述べる。

まず、油絵は素地としてカンヴァスや木の板、銅板などに描かれている(時にリューベンスのようにスレート石板に描いたものや紙、厚紙、現代美術の作品は何でもありだが・・・。)常識的に、その上に絵具の着きが良いように地塗りを施して、油絵の具で描いてあるが、金属や石のようなもの以外は湿気を吸放出して素地が伸縮する。ここで起きていいることは物理的な変化である。(絵画制作の稿でカンヴァスや板の伸び縮みで絵具が浮き上がり、剥がれることは述べた)板などの素地は長い年月、伸び縮を繰り返していると、やせる・・・つまり形の変形、容積が小さくなるほど縮んで寸法が変わる。フランドル絵画のように樫の板で正目板を選別して用いる伝統が出来たのは、この瘦せによって絵画が台無しになるのを防ぐためである。しかしこのような上質の材木が手に入らなかったフランス北部、スイスの北から南部にかけては信用時の板に描かれることもあって、それらの作品には今日、木目が筋としてくっきりと見えるほどに痩せている。(日本でも屋根瓦の下に敷く野地板は普通杉の板で、長い年月で変形し痩せたり、割れたりしている。このような障害を防ぐため、今日では神社仏閣などの文化財の修復を除いて、合板を用いるのが常識とされる)

その他、湿気を受けることで樹液があるものはカビが生えたり、水分の出入りで植物繊維が加水分解するものもある。こうなると素地として絵具層を支えることが出来なくなり、放置すれば絵画は失われる。この加水分解は素地のみでなく、亜麻仁油など混ぜて描かれた絵具層も、長い間まるで温室のような、夏が高温多湿、冬が冷温乾燥の環境に繰り返し置かれると、絵具面から水に溶けやすい油脂の成分が溶け出して、ぐずぐずの絵具の表面になってしまうことがある。特にこれらは絵具と練り合わせ材(メディウム)が十分に混ぜられていない油絵に起きる。(これらは修復にも良い結果をもたらさない)日本の戦後の画家たちが西洋の油彩画の伝統を学ぶ機会がなく、市販の絵具と紋切り型のメディウムを少し入れ、半光沢の仕上がりが求める理想の状態などと思い込んで描いた人たちの作品は・・・・見る影もない。

同時のカビの害も見受けられるのは、暗い押し入れのような場所に保管していた場合にはてきめんに起きるが、まず黒色にカビが生える。黒に白いカビで目立つから、黒にばかり生えると思い込むが、本物のマダーレーキなどにも生えるし、ほこりが付けばそこにはカビが生え、ついでにダニがカビを食べに来て、飛びクモがダニを食べにやってくる。(クモを殺してはいけない。不精な絵描きの友達だと思えば!!)カビが生えるのは摂氏23度くらいでも、相対湿度65%で十分カビは生える。空気が動いていれば救われるが、閉鎖状態では可能性がある。額縁やカンヴァスの木枠、板絵の素地、カンヴァス地(布)を食べる虫についても同じことで、虫類はそれぞれ適性な温湿度で活動を活発化する。

ヨーロッパの美術博物館の温湿度の標準が20℃~22℃、50%~55%だと述べたが、ヨーロッパに住んでいる人には問題のない環境で、文化財を享受する人の環境に合わされて「妥協」した数値なのだ。これらは美術館同士での展覧会における作品の貸し借りの基準であり、展示室すべての美術品に適用されるが、実際は油彩画も20℃より少し下の方が適切だと言える。油絵の具の油の部分は高温より低温で維持する方が保存に良い。油脂は亀の甲で結合する高分子と違って、横に分子が結合する臭い結合であって、この鎖の間に酸素などが入り易く経年劣化は早い。温度を下げることで遅らせる必要がある。しかし私も20℃と22℃のこの劣化の違いについては良く分からない。

写真フィルムはルーブルでは13℃以下であった。貸し出したり現像したりするたびに、徐々に温度の違う部屋に入れて慣らして20℃まで上げる。これをシーズニングと呼んでいる。これはフィルムが熱に弱く、多湿にも乾燥にも弱いからである。今日のカメラはデジタルであるが、ほんのこの間まで、フィルムであったが、多くの資料がデジタルに置き換えられるために交換作業がなされている。展覧会の中で物によってはクライメイトボックスと呼ばれる特殊な環境を用意する必要がある。刀剣のような湿気でさびやすい鉄製品は湿度は必要ないともいえるが、さやや飾り紐などが一所に展示されないように配慮して、相対湿度45%程度に落としている。

(科学で言うマイクロクライメイトは日本語で「微小気象」というらしい。例えば油絵の表面の温度湿度のような関係が作られているような個所を指して言うらしい。東京国立文化財研究所の偉い先生に「マイクロクライメイトを理解していないとなじられたが、そんなもの知らねえ!!)(実はパステル画のような作品を額装すると中の空間はマイクロクライメイトなのだが、これを科学研究費をもらって実験をやってみたが、結果として正直、私の科学的知識では明確な結果を得られなかった。誰かがいつか報告書を役に立ててくれればと思う。マイクロクライメイトを理解していないと言った先生に教えてもらえればよかったのだが・・・・私のような素人に誰も解説していないではないか。)(マイクロクライメイトの現象の実験では、周辺の条件が普通の日常の状況で、物質の表面に起きている熱交換や湿度の変化などが測定できないと理解できない。また実験の意味がない。基本として、日常の状態をどう捉えるか、そして生じる変化にどう対応できるか知力に技術力が求められる。)

オパールという宝石をご存じだろうか?この石の虹色の輝きは多湿も乾燥も嫌う。一定の基準・・・・つまり安定した温湿度を保つ必要がある。また象牙は乾燥を嫌う・・・・木の製品と近い。乾燥すると細かな亀裂が生じて変形し、取り返しがつかなくなる。日本の文化財で巻物、屏風などは紙の柔軟さを保つために相対湿度60%~65%あたりを要求している。これが本質的に適切がどうかは知らない。しかし冬などのギャラリーの乾燥しすぎの環境で新作などの日本画が裂けるのを見たことがある。これらの少々極端な事例は個別にクライメイトボックスを作って対応するが、中が空調されているとは限らない。密閉によって変化を抑えている程度の話だったりする。

西洋美術館で実現した21℃と相対湿度53%という数字が維持されると「恒温恒湿(こうおんこうしつ)」と呼ばれる。実は安定していることが大事なのだ。いろんな美術館博物館の施設があるが、この国の施設が意外と新しくても、最初から24時間空調や恒温恒湿を実現する気が無ければ機械的に実現できない。事故が起きた時のバックアップについて言えば尚更不十分な施設が多いのだ。だから21℃と55%にしないと貸せないとは言えないので、20℃~22℃、50%から55%とあるていどの遊びを許しているのだが・・・・これに噛みついた国立美術館関係者が居たな・・・。文系は科学を無視するのだ。作品を借用するのに「お前のところは金のかかる木箱を要求して・・・・すぐに段ボールに入れて持ってこい」と怒鳴った近代美術館の副館長をやっている者がいたな。

温湿度は展示だけではなく、収蔵中や輸送中にも厳密に求められる。(輸送中の温湿度の問題は美術品の輸送について述べた稿を参照)

かなり昔、私がドイツのニュールンベルグにあるゲルマン民族博物館で修復の研究生として学んでいた時、修復アトリエでトリオール(シンナーなどに含まれる有機溶剤)を気化させて気分が悪くなった同僚がアトリエの窓を開けた時、悪いものを見ていしまった。窓辺にあった修復中の板絵の細かく亀裂の入った画面に、いきなり亀裂の浮き上がりが生じたのだ。細かに割れた絵具層の端がわずかに10分ほどの間に反り返るのを、実況で変化するのを見てしまったのだ。すぐに大声で同僚を呼んで窓を閉め、状況を説明した。外気は乾燥していて板の部分が裏面に向かって収縮したのである。カンヴァスでも同じことが起きるから。

結局、温度湿度は人間にとって快適な数値に近く、美術品には極力変化のない恒温恒湿の状態が求められる。

おまけの話

西洋美術館で空調関係費の経費節減の問題で、注目されたのは季節の違いである。夏と冬の空調機の運用と中間期と呼ばれる春秋の運用では基準が異なる。夏は冷房モード、冬は暖房モード、春秋は中間期と呼ばれ、冷房と暖房を殆ど交互に動かして空気調和を行う。この中間期は張る嵐や台風などの気象変化が激しい季節であり、温湿度の安定化は機械性能が良いことが求められるし、担当する技術者が丁寧な運用を心掛ける必要がある。秋の台風が多く長引けば電気代が多くかかる。

ほかに西洋美術館は集客力が大きな美術展を頻繁に開催する。展示室での二酸化炭素濃度が6000ppmを超えたことも数ある。これでは気分も悪くなるだろう。しかし一般的には人の多い展示室は2000ppm程度であるが、せっかく空調をしているにもかかわらず、常時換気しなければならないレベルではない。しかし西洋美術館に外注で入っている業者「山武」の担当者が国土交通省の指針で、多くの人が室内に滞留する美術館や劇場などは1200ppm以下に保つように指導しているから、換気すると言ってきかなかった。国交省に認可を取り消されると言う。(馬鹿じゃないか!!雇い主が責任を取ると言っているのに聞かないのだから)

ご存じだろうか森の中の二酸化炭素濃度は約500ppmであり、国交省はそこに準じた数値を守れと基準を作っているのである。当時は民主党の馬淵国交相であったが、当人あてに「この基準は適切とは思えないが説明してい欲しい」と要望書を出したが「無視」された。WHO(世界保健機構)が定める二酸化炭素濃度は「重労働を行う環境で4500ppm程度にすべきだ」としているが、何故この国では美術館が1200pp以下なのか?説明できる基準があるはずもない!!お役所仕事だ。おかげで今も無駄な国民の税金を使って、換気し続けているのだ。ちなみに人間の吐き出す呼気は20000ppmあるとされている。科学は何のためにあるのだろう?

換気を行うときは外調機と言って、取り込む外気を内部の温度湿度の数値に合わすために調整を行う機械を通す。ついでに埃やNOxや硫黄酸化物も除去できるフィルターを通すのは現代では常識である。

 

また展示室が寒く感じる夏がやってくる。

 

 

 

 

 


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