河口公男の絵画:元国立西洋美術館保存修復研究員の絵画への理解はどの様なものだったか?

油彩画の修復家として、専門は北方ルネッサンス絵画、特に初期フランドル絵画を学んできた経験の集大成を試みる

パターンの絵画1

2018-01-10 23:53:47 | 絵画

テーマを思いつくのに、頻繁にTVの番組の中からヒントを得ることが多くて、俗っぽいと思われるだろうが、最近思考力が停滞しているので、それもありかと思っている。許されたい。

そこで、TVのニュースの一部であったか・・・中国の近代・現代美術を集めた大きな美術館らしいが、潘天寿(何と読むか忘れてしまった)という19世紀後半から20世紀の半ばの中国を生きた伝統の中国絵画を描き続けた作家であるが、現代の伝統的中国絵画や韓国の伝統的絵画によく似た表現が見られるのに、これ画家が偉大な画家として扱われているのを少し考え込んでしまった。どの作品も同じ表現の繰り返しなのであるが、売り絵画家とまったく同じパターンなのである。

何がと言えば、どこの国の近現代美術には表現様式の低迷というものが観られ、作者の個人的な感性の鋭さより、大衆的な受けを狙った表現が主流になっているのに残念な思いがある。例えば日本画でも明治期の日本画には伝統のすごみがあったのに、現代には全く感じられない。どれも似たり寄ったりでしかない。

実はこのブログの昨年のテーマの「近現代美術」について書こうとしたところ、中途半端に筆を置いているところがあって・・・正直、個人的な思いを、相当ぶしつけに書いた原稿があって、それを書き続けるところで中断している・・・根本的な理由というか、気になって書こうか書くまいかと思う内容に、今回のテーマが展開しなければいけなくなったと思っている。それは攻撃で、批判であり、人を否にさせるかもしれない。しかし私が常に思い描く「絵画」があまりに滅びかけていると、現代を嘆くより、誰かにぶっつけて共感を得たいと思う気持ちは、恐らく「貴乃花が描く相撲道」みたいなもののように「はみだし」であって、一方で興行的になって疑いもしない相撲協会の在り方に、あって現代の美術界に同じ体質を感じるが、そんな時代なのか。拝金主義や物質主義を感じてしまう。

そんな時代の流れとは、作家が職業的に自己の存在をアピールするための方法が個人に委ねられ、個人の小さな頭脳で発案される手法は様々な伝統的な積み重ねから出た知恵や技術や最も重要な感性まで失わせてきたと、これまでも私は何回も述べてきたが、「過去の様式に対して、現代の様式が対立するだけの対等な価値がある」と皆思い込んでいるのではないかと・・・・危惧する。

私が22歳でベルギーに上陸し、「西洋美術」を学び始めた時、アカデミーの教授は「あんたのやっていることはデジャ パッセよ」つまり終わったことだと言ったのであるが、この言葉が強烈な反抗心を私に植え付けた。・・・で「新しいものを作り出すのが芸術だ」と宣い(のたまい)、この馬鹿教授が!!と思って今日まで生きてきた。「陽の元に新しきはなし」という聖書の言葉が私には大切だ。

近代が個人に表現の自由をもたらしたが、個人の頭脳は「イズム」で存在感を主張し、観念的な表現様式は感性を失っていったのだ。新しいものがあると思い込んだ後続の者たちにあったのは観念アートだ。もはや美術ではない。

結果として、もっとも忌むべきものはパターン化した表現である。文頭で述べた潘天寿氏の絵画にみられる、風景の樹木、、草や松の描き方、樹上の鷹の描き方など、繰り返しがそれぞれの作品のなかで登場し、魅力がない。ハンコでも作って押したらどうだろうかと思った。

作品の中で表現様式が統一されるのは、作者の感性で画面全体が支配されるからであるが、何度でも似たような作品が描かれるのは売り絵制作の流れでしかない。同じ内容を繰り返し描いてはいけないということではなく、同じ表現を繰り返すのは、すでに創作では無くなっていると言えるから、売り絵だというのである。典型的な工場生産的な手法であり、商業主義に毒されているとしか思えない。

同じテーマをいろいろな表現で突き詰めてみたいと思うのは、自画像を描き続けたレンブラントの意が正当化しているだろう。彼はどれ一つとして同じ繰り返しはしていない。彼は勿論工房を運営するためにコピーを弟子に描かせているが、制作内容のパターン化ではなく、営業方法のパターン化であった。しかし彼の描写方法では弟子たちにパターンを教え込んで再現させることは不可能であった。デッサン力が着いていかなかったのである。もう一人、リューベンスの制作は弟子と共に制作することが、リューベンス絵画の一つの様式となっているとも言える。彼に多くの注文が集まり始めた時、彼は工房での制作をシステマティックに運営するしかなかった。彼が構想を練り、下絵となるオイルスケッチやデッサンを作り、カンヴァスに下絵を描かせる。良ければ制作に入るのであるが、この時点で下絵が許されたのは、リューベンス印のデッサンに合格した者だけで、リューベンスほどのデッサン力の鋭さはなくとも、誰もがリューベンスだと分る彼のデッサンの癖や表現性を再現できたものだけだ。つまり「工房様式」と呼ばれるパターンがあったのだ。このパターンは同じ下絵やモチーフが繰り返されたとかということとは違う。要するに外観は決して同じものではないが、リューベンス印の「味付け」が統一されているのである。(皆が求めるラーメンのスープの変わりない味と同じかも・・・・ちょっと品性が違うけど)

パターン化すると誰の作品か直ぐに分かるが、面白くなく、どうでも良い作品にされてしまうだろう。値打ちが下がるわけだが、商売人や評論家はまた別のことしか考えていないから、とんでもない解説をする。

 前項で述べた「生きがい」のところで、天野さんが絵を描くような「自然に湧き出るテーマ」で制作すればパターン化は防げる。やはり絵を描くということは、「職業的」であるか、それとも個人の「表現的」であるかどうかの問題で違いが出る。そこが現代だ。

パターン化の要素

パターン化になってしまう要因は具象から抽象へのプロセスにあると思う。制作上、最初から抽象絵画を狙うと、自然な成り行きで、出発点の形象の繰り返しで発展する、いや展開すると言えるだろう。目的性があるならば最初からそれに近づいているはずだから、展開ではなく「追求」になるが。カンジンスキーがこの方法で展開した。「追求した」と言うほどのことはないが。当然ながら、具象絵画にも抽象性は存在し、形の強調や省略はその一つで、細かな細部は必要か否かによって強調や省略がされることで、観る者にまとまりのある視点を与え、重すぎた表現を軽くし、空間を広げたりする。モチーフに至ってはより重要な存在感を与えることも可能になる。古典の時代から一つの手法として行われてきた。一方、その古典の初期であるイコンの時代に、表現の対象のパターン化は行われ、宗教的な意味合いが濃い象徴としての役割を果たしていた。それは技法表現の可能性も左右したとも言える。神や聖人を描く場合に礼拝の対象としての「世俗性を排し、威厳を高める」ための形にされたのではないか?表現の対象が一目瞭然に判別できる形象でなければならなかったのである。こうした要求にはパターン化が付きものだと言えるだろう。

象徴は具体の抽象化であり、パターン化である。象徴主義絵画が一部を除いてパターン化されたわけではない。象徴主義絵画はモチーフを象徴的に扱うことで雰囲気を作り出し、単純に意味合いを持たそうとしたのである。ここで抽象化とされるものは形であり、現代抽象絵画にみられる「意味不明」の抽象化に、作者は象徴的な役割を感じているのであろうと思う。作品に題名を着ける行為が、それそのものである。

イタリアの画家モランディの作品をご存じだろうか?多くはビンをテーブルに並べて描く静物画であるが、何百とある作品に多くの変化はなく、区別が殆どつかなくて作者の意図が良く分からない。彼はセザンヌの後継者だと言われているが・・・。批評家の大事な研究対象かも知れないが、観る者には同じパターンの繰り返しに、セザンヌが始めた抽象画の一つだと誰が思う。

 

 


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