どこかで名前を目にした記憶はあるのだけれど。
「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和四年(2022)2月4日(金曜日)
通巻7207号
書評 しょひょう BOOKREVIEW
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自由とは保守与党に組みすることではない
権力と最後まで闘ったジャーナリストの猛者がいた
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小野耕資『陸褐南 (筆一本で権力と闘いつづけた男)』(K&Kプレス)
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国粋主義、福沢の論敵、自由主義を日本流に解釈し、身を粉にして唱えつづけ、他方では子規や佐藤紅緑や、長谷川如是閑を育てた陸褐南(くがかつなん)は赤貧に死す。
有名な逸話は正岡子規を預かり、生活から療養費、葬儀まで面倒を見たことだろう。天才の俳人、その才能を見出したのは夏目漱石だが、その活躍の紙面を与え、自由に書かせたのは陸褐南(褐は「羊」篇)だった。子規は終生恩人として敬愛した。
陸褐南の名を現代日本人で知る人は少ないだろう。
かつては丸山真男も司馬遼太郎も注目した。同期には志賀重昂、中江兆民、杉浦重剛、三宅雪嶺ら錚々たる明治の言論人がおり、後輩には山路愛山、佐藤紅緑ら、最後まで生活の面倒を見たのが正岡子規。
論敵は福沢諭吉だった。西洋かぶれと誤解したのだろう。
政治家で支援者は谷千城、品川弥次郎、近衛篤麿、三浦悟楼らが居た。とくに谷千城ほど波瀾万丈の豪傑は稀だが、軍人から政治を志し、陸の『日本』を強く支援した。谷が国粋主義に転じたのは西欧を見て、自らを反省したからで、軍人生活から政治に人生を変えた。貴族院議院、学習院院長を拝命した。この国粋主義の風雲に、陸褐南と知り合って、胴元の一人となった。
陸褐南が主催した新聞「日本」が、最初に社会認知されたのは条約改正に反対の言論だった。
明治二十二年、大隈重信系といわれた『郵便報知新聞』が改正を是とするキャンペーンを始め、『東京公論』(星亨系)と『東雲新聞』(主筆・中江兆民)が反対論。「日本新聞」には反対派の論客・活動家が集結する一大ロビィとなった。
その甲斐あって(?)日本新聞は八回も発行禁止処分となった。結局は来島恒喜の大隈外相爆殺未遂事件で、条約は流れ、内閣は総辞職となった。来島は、その場で自刃した。
在野には頭山満、内田良平ら壮士たちが大活躍していた。
執筆の動機を著者の小野氏が言う。
「世は小泉純一郎内閣で構造改革の嵐が吹き荒れていた。(中略)弱肉強食的新自由主義路線にはどこかモヤモヤした違和感があった。これが正しい日本の方向性とはどうしても思えなかった。そんな時に陸褐南を知り、雷に打たれたような衝撃を受けた。今後の日本の目指すべき政治、言論の在り方を示して貰ったような気がしたのだ。褐南の同胞愛の精神、それこそが現代日本人にかけている精神ではないだろうか」。(114p)。
陸褐南は詠んだ。
真弓にも 征矢にもかえて とる筆の あとにや我は 引き返すべき
『梓弓』ではなく真弓である。
梓弓は神事儀式に用いられ、和歌では枕詞。真弓は戦闘用の箭に転用できる。
新聞『日本』は明治二十二年から八年間で三十回、合計二百三十日もの発行停止処分をうけるほどの反権力ジャーナリズムであった。国粋主義、自由主義だが、政府に絶対に阿らなかった。だが停刊は収拾源を直撃するから経営は至難の技となり、あちこちに借金を重ねた。
この反権力の姿勢が甦った。
陸褐南の精神を継続せんとして、南丘喜八郎氏が『月刊日本』を創刊して、はや四半世紀。その発行元のK&Kプレスが本書を刊行したのも陸褐南のもつ磁力に引きよせられた縁だろう。