何だか世情はひたすら悪い方に向かおうとしているように思えてならない。
国内外、共に。
「是々非々で」って考え方も大概だと持っていたけど(それで何度も日記に書いてきたけど)、今は「川に落ちた犬は棒で叩け」じゃないが「弱っているところを見たらここぞとばかりに滅多打ちにして、息の根を止めろ」みたいな、およそ日本にはなかった発想・行動が流行しているように思える。
こんな日記を書いていた。↓
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「愚民国家へ」(下書きに拘っていた理由)
2013.10/25 (Fri)
日記用に、と用意した八十頁のノート。
いつから使ってるんだろう、と思って表紙を見ると「5月18日」となっている。
ということは、五か月もかかって、それもあと六頁だから一ヶ月平均十五頁しか日記を書いてない、ということになる。
一ヶ月に十五頁。一日に半頁。
勿論、そんなわけはない。相当量、直接キーボードに向かって、転載した他ブログの記事に触発されて苦心惨憺、怪しい文を打ち込んでいるのだから、それなりの分量は残している。(今、数えてみたら百近くありました)
対して、ちゃんと書いている下書きとしての日記は、ああでもないこうでもない、と矢印をそこら中に付けたり、番号付けて文を前後させる、という思いっきりアナログなやり方。
ぐちゃぐちゃな文字と相俟って何が何だか分からない「文章と格闘している」、みたいな日記、「書く」というより「作る」みたいな日記は、一ヶ月で十五頁平均しかつけてない、ということです。
で、前回書いたのは「是非を決する己の頭」。
もう三週間も前です。
直接打ち込んだものの方が文字も見易い(当たり前ですが)、移動・差し替えも簡単にできる。文章のまとまりということになると、手書きにひけをとらないどころか慣れると直接打ち込んだ方が圧倒的に有利だ。
それなのに、やっぱり手書きでノートに、というのが一番良い、と思う。何故なんだろう。直接打ち込む方が能くまとまっている。でも何かが違う。ただの思い込みか?
それが今日になってやっと分かりました。
その理由は、この自分でも読めない時のあるぐちゃぐちゃな文字にあったのです。
差し替えをする。前後の辻褄を合わせるために、ただでさえぐちゃぐちゃな文字なのに、更にそれに輪をかけた、蚯蚓ののたくったような走り書きを追加する。
それを後で、順を逐って読もうとする。当然のように読めない。
で、どういうつもりで書いたんだったろうか、と自分の書いた蚯蚓文字相手に古文書の読解みたいなことをしなきゃならない。いい加減うんざりする。毎回そうです。けど、これが重要な鍵でした。
大事なことは考えのトレース、でした。蚯蚓ののたくったような字を判読することで、何を書いたか詳細に思い出すことが、私には一番大切なことなのでした。
一度考えたことを、もう一度丁寧に振り返ってみる。
意外にやってないんですよね、普段。私だけかもしれないけど。
でも、大方の人だって実は、言いっ放し、やりっぱなしなんじゃないでしょうか。
日常生活で起こる個々の問題って、さほどに重要な問題でないこと多いですからね、だから「まっ、いっか」って。「いつまで過ぎたことをグジグジ言ってんだ。そんな暇があったら先を見ろ!我々は未来に生きるんだ」、なぁんて。
人間って(特に日本人は?)忘れっぽいというか、万事折り合いをつけて生きてるもんだから、細かいことねちねちと考え直すことをしない。
ところが、考えることを進める場合は辿って来た道をしっかりと、それこそ古轍を踏むように繰り返して見なきゃならない。そうでないと確実な前進は望めない。
何だ。結局は時々書いている習い事と同じではないか。
同じことを繰り返し、繰り返し、寸分違わぬようになぞっていく。その繰り返しの果てに、真っ白な紙の上に思い通りの線が引ける。
先日、或る尊敬する方からこれと同じようなことを教示されました。
「何事も、今十回できたなら次は十一回にしよう、十一回できたら十二回できる筈だ、と取り組んで行く。その先にこそ百回、千回できる現実がある」
といったような話でした。
以前に日記に書いた書家の話も同じ理屈です。「千里之立行起一歩」、です。
それを毎回繰り返す。
書家の話だって、この「十回できたら~」の教示だって、知っただけではしょうがない。例の弁証法の三大法則だって暗誦できるだけではしょうがない。
それを繰り返し繰り返し適用しようとしてみる。見事適用できたら終わり、じゃなくって、それからも繰り返し繰り返し適用し続ける。
全く同じ考え方で(算数の加減乗除だってそうでしょう)、とにかく繰り返し繰り返し、「丁寧に」やってみる。
「丁寧に」文字を書き続ければ字が上手になるんですから、
「丁寧に」考えれば考えも上手(?)になるでしょう。
それをやらないで、次から次へと出てくる知識(情報)を次から次へと捌いて(裁いて)行くのが、世間でいう「是々非々」です。
「是か非か」、裁くのが忙しくって、上手になる努力、できないでしょう?
それは「愚民への一里塚」。