ムネコマサン

写真付日記で~す。物忘れないうちにメモして、日々の出来事、アチコチ出かけコンデジ・一眼画像をアップしてます。

今は閉館中の なにわの海の時空館 最終回

2021-05-24 08:05:24 | 日記

 前回の続きで 古代から中世期の大阪湾(江戸時代にはチヌ湾・・・・・魚のクロダイ、大阪ではチヌが
よく釣れたところから 今も、岸壁で 釣れてます)
 江戸時代頃の様子などが 判りやすく説明されてました。

大阪の港の始まり  京都方面からの淀川の下流域と大和川下流域が 合流し 大きな内海(湿地)だったころだと思います。
1703年には大和川の付け替えにより湿地帯は解消されてます
大阪城のあった場所は上町台地の北の端 又、時代を遡ると 西暦600年頃には 難波の宮で天皇が住んでいた場所も

江戸時代に1703年までに なにわの町の真ん中を開削し堀江と呼ばれてます)、小船が通れるようになり 
京都、大和(奈良県)への水運を行ったようですね

 又、堀江は 東西、南北に複数掘られ 商人の町として拡大、飲み水を売る小舟も行きかった
そうです。
 水は淀川あたりで樽に汲み上げ 堀を行きかい 販売していたそうです。
道頓掘は私費で作ったとか 

 菱垣廻船で 物資が天保山、堂島付近に集まり 小さな船に積み替えられ京都、奈良へ運ばれたようですね
そのため堂島付近には 各藩の蔵屋敷が沢山あったとか 歴史は良く判らないところですが
聞きかじりの話を自分なりにまとめてみると面白いなぁと思ってます。

江戸時代の大坂の街並み・・・・橋が多いなぁ
小話・・・・・浪速には橋(はし)が多いなぁ しんさいばし、おおえばし、よどやばし、てんまばし、てんじんばしと それは橋と違う バシや 

大阪みなと今昔・・・・埋立地が多いですね


大阪市章 みおつくし(澪標)の由来説明板
みおつくし(澪標)は、昔、難波江の浅瀬に建てられていた水路の標識です。摂津名所図絵などには、
クイの上に×印をつけただけのものが描かれ、天保年間の絵図などには、今の市章のような形のものが
描かれています。
大阪の繁栄は、昔から出船入船に負うところが多く、長らく人々に親しまれていたところから、
明治27年4月、みおつくし(澪標)が市章に制定されてます。 

 いろいろ調べながら 作っていると楽しいもので~す。

もっとしっかり見ておくべきだった 反省しきり
外からの眺めを








最寄りの地下鉄 コスモスクウェア駅前より


なにわの海の時空館終わりです。
ありがとうございました。