断るまでもありませんが、私は教育の専門家ではないので、以下の文は私自身の経験以外は全て推測によるものです。
それで当然偏った考えもあれば、間違いも多いと思うので、お気づきの点があったら是非教えて下さい。
[学力テストの変遷]
昔のテスト
また年寄りが昔のことばかり言うと敬遠しないで是非読んで頂きたい。
戦前は先生方がガリ版で手作りの試験問題を作り謄写版でコピーしていた。
数学または算数(当時は算術)を例に上げて言うと、今の市販のテスト用紙のように、いきなり答を書くのでなくて、計算の手順を必ず書かせ、先生によっては例え答が間違っていても、手順があっていたら何点かつけて貰っていた。
つまり先生はテストの結果を見て、生徒の計算力とともに、解答を出すまでの手法に間違いがないかまで見て後日の指導に当ていたと思う。
これからが私の意見だが、私は学校でのテストの意味は、授業中良くできる子や積極的な子は、教師からの質問に積極的に答えるので理解の程度をある程度理解出来るが、そうでない子の授業内容の理解の程度を知る為と、積極的な子も本当にどれだけ理解できているのかを確かめ、以後の授業の内容を変えたり、生徒の理解不足分を補習に当てたりする物だし、昔は教師に差はあっても、皆そうしていたと思う。
今のテスト
然し時代は変わった。
・受験戦争の激化とともに授業を商売する塾が現れた。
・塾は児童や生徒の中学、高校の合格率を上げるため、偏差値の考えを導入し、生徒のレベルに応じて、適当な学校を推薦するようにした。
・小、中学校もその効果を見て同じ考え方を入れた。
・公立の小、中学校では日教組と文部省の対立→文部省の言うことを聞かない教師の管理強化→その手段としての各種提出書類の増加、家庭の教育力の低下による問題児の増加、時世の変化に伴う家庭からの要請(例えば英語の授業の希望)などで、教師の作業量が急増した。
・その為に教師が生徒と接触する時間が減少し、テストの結果を授業に反映すどころで無くなった。
・テスト問題も教師の省力化のために、市販のテスト用紙のように○×式や空白部分の答の記入としいういきなり答えだけ書くだけのテスト様式が増えた(と思う。)
それでテストの結果を見て指導方法変えるより、生徒の理解の全体的な把握と、生徒の能力のチェックの意味しかなくなった。
・一方、偏差値の普及→独り歩きと共に、日教組を中心に偏差値が生徒を差別するものだと言う考えが広まり、そのデータとなる学力テストさえ批判する空気が生れてきた。
・日教組の「手をつないでゴールする」と言う横並び思想からテストを全員百点をつける教師まで現れるのに、実質的に生徒の差別化に繋がりかねない内申書などに評価の基準を設けた。
・その流れが現在の日教組の全国一斉の学力テストが学校の序列化につながるとしての反対まで繋がっているのだ。
・全国一斉の学力テストが各学校に学力の程度が全国的にどのレベルにあるかを知らせ、その対策を考えさせる目的を意図的に自分の都合の良い方に解釈している。
それとは少し違うが、学校でのテストも私の思うテスト本来の生徒指導の目的を見失っているのではないだろうか。
そしてこれらが生徒の学力低下の一因にもなっているのではないか。
[殆ど勉強しない戦前の生徒]
私の子供時代の生徒は殆ど勉強しないで、帰宅後は遊んでばかりいた。
その一番大きな原因は、進学する生徒はごく少数だったことだ。
然しそれでも生徒達は、何とか学校について行けたと思う。
人のことは判らぬので私の経験から考えると次のような理由があったと思う。
・上記のように学校のテスト→生徒の理解度の把握→授業への反映の機能が学校によって差はあるがなんとか働いていた。
・娯楽が殆ど無いので、本を読むことが唯一の楽しみだった。私の場合は当時の少年向きの雑誌は勿論、講談本から母の買った婦人雑誌まで読みあさり、兄が借りてきた本を読むために兄が寝るまでまっていた記憶がある。
それが後に述べる様に学校での授業の理解にどれだけ貢献したことか。
その点では情報過多の今の子達はある意味で可哀相な気がする。
またテレビを見ている時の脳は殆ど完全に機能していないそうだが、(読書による)考える力が落ちて来たのも判るような気がする。
・歴史の授業でも、読書の時の習慣で直ぐ我が事に置き換えて考えてしまうので、聞いただけて覚えてしまう。(我が事なら人は忘れないものだ。)
・外部からの情報が殆ど入らないので、好奇心→集中力を持って授業を聞いた。
好奇心と言えば、窓際のトットちゃんの黒柳徹子さんのような子もいたかも知れないが、家庭の躾けが行き届いていたか、そのような生徒は殆どいなかった。
・素直な子が多かったので、先生の言うことをスポンジが水を吸収するように頭に入った。
・九九や基本的な計算、漢字の書き取りなどは出来るまで帰らせぬなど、徹底的に鍛えられた。
・勿論日教組などと当時の政府と考え方の違う教師団体が無かったので、良い悪いは別としてこの面からの混乱はなかった。
この様な事情が戦前の普通の子が対して勉強しなくても、そう大きな問題も起こさずに、卒業後も多くの人達が社会に貢献出来た理由だと思う。
[今の生徒達の傾向]
それに対して今の学校は社会情勢が厳しくなったこともあるが、次のように生徒の育成について悪い条件が重なりあいすぎている。
・塾で、学校で教えることはとうに知っているか、覚えなくも塾で教えて貰えると考える→集中力の欠如→学級の崩壊
・読書量の極端な低下→物事を能動的に受け入れること、自分で想像したり考えりする訓練が出来てない→OECDの調査で明らかになった応用力の低下。
テレビ、ゲーム漬け→考えるより先に受動的に反応するだけ。
・個性の尊重の名の躾けの軽視または無視→我慢できず飽きやすい子→集中の欠如→学力の低下と学級の崩壊
・情報の氾濫→学校で学級の面白くない事を勉強するより他に面白いことが一杯ある。
一方学校がわから言えば、
・前述のテストの変遷で述べた学校の混乱と、教師の不可の増加や、学校行政の混乱
・個性のを伸ばすという漠然とした目標とその教育手段の混乱
・教師の聖職→労働者と言う意識の変化
など生徒を取り巻く環境の悪化が著しい。
これらを考えると学力低下の原因が溢れ過ぎているような気がする。
以上お迎え時も間近な年寄りの考え方を書いてきた。
然し「百ます計算」計算で有名な陰山英男先生の「本当の学力をつける本」を見ると、
・読み書き計算の徹底は一生の財産
・基礎的なことの反復練習
・テレビは二時間まで
・翌日の授業に妨げになるまで塾には行かせない
・家庭での躾け
・過保護と無責任からの脱却
・学校の授業に集中
・読書の習慣をつける
・算数のテストではその答え作成までの経過まで調べる
などの文字がならんでいるのを見ると私の経験や考えがまんざら古いものでなく、程度の差こそあれ陰山先生のような真面目な教師は誰でもが考えていることだと思う。
私が一番訴えたいのは、テストについては学校内だけでなく、全国のテストもその目的をしっかり見直して有効に活用して、日本が技術力では依然としてトップ・クラスの位置を維持、向上できるように文部省や教育関係者が頑張って貰いたいものだ。
何故なら市場中心経済主義では、それしか日本が生きる道はないような気がするからだ。
参照:
カテゴリー → 教育問題
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