(2/28ブログ記事『いき≦センス』から続く)
分かるようで分からない『いき』と『センス』と『カッコいい』の解き明かしもこれで終わりにしたい。考えるほどモヤモヤするが出口見えず、「なぜそれを考えるのか?」の方が大事に思えてきた。前回、『いき』(粋)と『センス』(感覚)の違いを考えた。後者は面白さを感じる心の余裕、前者は歴史的定義持つ様子だから使い方も語意の範囲も違う。結論から書くと、『カッコいい』(格好いい)はそれらを含めてもっと広い範囲の素敵に感じるヒト・モノ・コトでないかなあ。
人生は失敗の連続だけどそれでも生き続けるのは、前よりもカッコいい反省と失敗をするためという韓国ドラマ(『ただ愛する仲』だったと思う)のお婆さんの印象的なセリフがある。自分が納得出来る出会いや発見に対する感じ方だ。話は少し飛ぶが、詩は既に知っていることの中に未知のものが割り込んだ状態の表現(吉野弘著『詩のすすめ』から)とあり、これを体現できるのがセンスで、感じられるのがカッコよさじゃないかな。つまり、粋を含めて言葉にできない(=説明できない)理由は、本質が『詩』(ポエム)の体験だからだ。例えばだが、自分が好きな絵は絶対に詩を感じる、というか言葉に出来ない何か、それは詩と言うしかないものだ。
映画『PERFACT DAYS』が好きか嫌いかの分岐点は、説明不可の『詩』的体験を有意義な価値と思えるかどうかにある。映画のドラマ性や主人公の過去の深読みはほぼ意味が無い。波風氏は思った、カッコいい人生だ。寝る前に古本屋で100円で買った文庫本を(幸田文著の随筆集『木』)をスタンドの灯りで読む映像に惚れぼれする。波風氏の義弟が校長退職後に公園トイレの掃除を仕事にしていた、心から「カッコいいなあ」と思った。なかなかできないことだし、妹が「偉い」と言って弁当作って持たせるのもカッコいい。
ブログ記事『いき センス カッコいい』を書いたのは、73歳を前に自分で納得のいく自分らしさ、面白さを感じる余裕を持ち続けたいからだ。
映画の文庫本を買って読んでいる(笑)。幸田文の随筆で父露伴の厳しい掃除の躾け、とりわけ水仕事は生半可な奴には任せられないのところが忘れられない。娘文の文章、なんて粋でセンスよくて格好よいのだろう ママヨさん酢飯担当、波風氏海苔巻き担当(マグロ、サーモン、帆立、胡瓜、卵焼き)の昼食で少し早めの節分画像は坪内和夫さんのイラスト。たぶんハガキ大だと思うが大きく感じる。