波風立男氏の生活と意見

老人暮らしのトキドキ絵日記

先生に無縁の立身出世

2022年03月27日 | 日記・エッセイ・コラム

長になりたくないという人が、校長を『出世』した人と揶揄して嫌な感じになったことがある。子どもを良くするのが唯一使命の学校で出世はそぐわないし、嫉妬しているのだろうかとも思った。ひどい校長にしか接しなかったとも思う。
先生の夢は、良い学級をつくり、良い授業をすることだ。良い先生と良い子どもが育つ素敵な学校をつくりたいというのもまた先生の夢だ。どれが上でどれが下とかではなく、先生が役割分担するのが学校だ。

 

が中に、『出世』したくてたまらないという変な先生も確かにいる。国はせっせと校長先生を学校で一番偉い人にしたがるし、会社の序列と混同する世間もあるから不思議とは言えない。波風氏は、出世意欲が仕事のモチベーションと連動する方もいるから否定しないが、過剰な出世意欲は困ると思っていた。恩師から、「校長になるのは、偉い人になるのではなくエライことになるのだ」(新聞掲載エッセー『恩師の言いつけ』参照)と教えて貰ったが、この言葉は現役時代の思い出にかぶさるし、隠居老人の今も免除放免されたわけではない。それが教員世界で生きた自分の道徳律だ。肩書を欲しがらず、衆を頼まず、自分の頭で考え、時に覚悟を持ち、悪口言わず直接本人に言う、なんてことが『エライこと』の続きだ。

身出世は辞書に、「社会的に認められるいい地位に就き、その社会で高い評価を受ける存在であること」とあった。繰り返しになるが、教員の世界に『高い地位』は無い。高い地位を目指して仕事をするのは間違いなく邪道だ。高い地位は、高い評価の結果であり、それを受けることはエライことなのだ。
掲載した朝日新聞朝刊『折々の言葉』を、先生たちが笑いながら話せる職員室であって欲しい。そして、校長先生も教頭先生も主幹教諭も、子どもと教育を良くする『先生』として評価を受ける存在であって欲しいなあ。この頃の教育の最大の問題は、「先生とはどんな仕事なのか、どんな先生が立派なのか」を先生も庶民も曖昧にされていることだと思う。


「教養ある多くの者は富の誘惑を払うことができる。しかし、名声の誘惑を退けることは偉大な人に限られる」(林語道)、やたら肩書を喜んだり、稀だが嘘で評価と富を求める元校長もいる 歯の浮くお世辞を多用する人は、自分をすごく評価して欲しいんだろうなあ。「いいね」欲しがるのは若者に限らない被告道警のヤジ排除裁判で表現の自由侵害の判決。まだ民主主義があった。

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