定義できない「いき」と「センス」と「カッコいい」。それで困ることはないが、いったん「?」点灯すると決着つけずには落ち着かない(笑)。本を読んでも「?」消灯できず、いつものように直感的に決着つけるしかない。まあ、一番の問題は、なぜ波風氏はこの問題にこだわるのかということなんだけど。
本の知識だが、『いき』とは廓に見られる異性への「媚態」を柱に、武士道から繋がる町人の自由な「意気地」と、仏教の運命的な静観の「諦め」とで支えられた美意識の構造、で最初の?決着。江戸時代からの感覚表現だが今も使われているのはアップデートのゆえだろう。縞柄が粋で縦縞が横縞より粋という説明に波風氏が大いに感心している場合でなく、世界観や宗教観をまとって長い時代を生き抜いている審美眼と押さえておこう。自分を殺してでも信ずるものを生かすといった美しさを根底に持つ凄みある感覚。
それに比べて、『センス』は軽い感じだ。本では「センスとはリズム」などとあり、時間と人間の関係、偶然性、意味のリズムなどこれでもかこれでもかと理解不能な哲学的な重量ある説明。ほーっ、やすやすと定義できないんだ(笑)。「最初の定義:センスとは「直観的にわかることである」が一番わかり、結局何もわからない。この本を分かる奴は、言葉の意味は通じても感覚は怪しい奴と思うことにする。『センス』に加重なニュアンスを与えるのは疑問。ヒト・コト・モノに対する「センス」とは、どこかに「面白さを感じる余裕」で良いのじゃないかなあ。もう一つ、センスは才能でなく後天的に身に着く感覚もおさえておこう。
『いき』よりも気軽に使える「面白さ」のカジュアルな評価が『センス』でだめかな。(『カッコいい』との関係は、長くなったので次回に。ところで「面白さ」とは何かなあ?)
画像は、1/8ブログ『ゆるやかな線』掲載の松田正平の、いきで、センスがあって、かっこいい油絵 寝ていて便意ありトイレに入ると嘔吐。定期通院の予定日だったので医師に診てもらった。胃に炎症があるようで、ママヨさんとの結論は前日の「食い過ぎ」(涙)、13時間床に就いて反省に服す貧乏でも楽しく暮らすためには、健康と人間関係と自由が大事らしい。そんなことを思いながら寝て、「お粥できましたよ」で起きた。