ほぼ30年ぶりに再会し、通勤の車内で、自宅で、感激して聴いているセルとクリーヴランド管のCDに添付のリーフレットに、興味深い記事がありました。
ミッチェル・チャーリー氏の文を、野口剛夫氏が訳したもので、ジョージ・セルがその音楽人生の中で、一貫してシューマンの交響曲を取り上げてきたことを、実例を挙げて示しています。
1929年、プラハのドイツ歌劇場で、若干32歳の首席指揮者としてシューマンの第4交響曲を取り上げ、チェコフィルを振っているとのこと。1937 年に、セルがロンドン・フィルでシューマンの交響曲第2番を取り上げ演奏したとき、英国の評論家は「ここではほとんど知られていない作品」と評したそうです。実際、60年代のグローブ音楽辞典でも、シューマンは管弦楽法が下手で泥を塗りたくったようなスコアだと書いていたそうな。
セルが米国にデビューしたのは、翌1930年、セントルイス交響楽団との交響曲第3番「ライン」だったとありますし、クリーヴランド管の音楽監督に就任して以後は、24のシーズン中19シーズンで、シューマンの交響曲を取り上げているそうです。
日本での演奏会でも、第4番が取り上げられている(*)ように、4回の国際演奏旅行でも毎回いずれかの曲が取り上げられたそうです。
(*):【追記】1970年5月23日、東京文化会館、(1)ベルリオーズ「ローマの謝肉祭」序曲 (2)シューマン「交響曲第4番」(3)ウォルトン「ヒンデミットの主題による変奏曲」(4)ラヴェル「ダフニスとクロエ」第2組曲。クラシカルな某 さんに感謝。
シューマンの生誕150年にあたる1960年に、セルがNYタイムズに寄稿したエッセイでも、シューマンの交響曲の価値を擁護し、若い同僚に4つの傑作に深い愛情と関心を寄せてほしい、と訴えています。シューマンの交響曲を終生変わらぬレパートリーとして取り上げ、その価値を訴え続けたセルらしい文章です。セルのシューマンの意味。この文章に触れただけでも、やや割高な日本盤を購入した意味がありました。
写真は、つい先日の山形駅西口付近、クレーンが伸びる工事現場の様子です。
ミッチェル・チャーリー氏の文を、野口剛夫氏が訳したもので、ジョージ・セルがその音楽人生の中で、一貫してシューマンの交響曲を取り上げてきたことを、実例を挙げて示しています。
1929年、プラハのドイツ歌劇場で、若干32歳の首席指揮者としてシューマンの第4交響曲を取り上げ、チェコフィルを振っているとのこと。1937 年に、セルがロンドン・フィルでシューマンの交響曲第2番を取り上げ演奏したとき、英国の評論家は「ここではほとんど知られていない作品」と評したそうです。実際、60年代のグローブ音楽辞典でも、シューマンは管弦楽法が下手で泥を塗りたくったようなスコアだと書いていたそうな。
セルが米国にデビューしたのは、翌1930年、セントルイス交響楽団との交響曲第3番「ライン」だったとありますし、クリーヴランド管の音楽監督に就任して以後は、24のシーズン中19シーズンで、シューマンの交響曲を取り上げているそうです。
日本での演奏会でも、第4番が取り上げられている(*)ように、4回の国際演奏旅行でも毎回いずれかの曲が取り上げられたそうです。
(*):【追記】1970年5月23日、東京文化会館、(1)ベルリオーズ「ローマの謝肉祭」序曲 (2)シューマン「交響曲第4番」(3)ウォルトン「ヒンデミットの主題による変奏曲」(4)ラヴェル「ダフニスとクロエ」第2組曲。クラシカルな某 さんに感謝。
シューマンの生誕150年にあたる1960年に、セルがNYタイムズに寄稿したエッセイでも、シューマンの交響曲の価値を擁護し、若い同僚に4つの傑作に深い愛情と関心を寄せてほしい、と訴えています。シューマンの交響曲を終生変わらぬレパートリーとして取り上げ、その価値を訴え続けたセルらしい文章です。セルのシューマンの意味。この文章に触れただけでも、やや割高な日本盤を購入した意味がありました。
写真は、つい先日の山形駅西口付近、クレーンが伸びる工事現場の様子です。