文春文庫で、藤沢周平著『夜の橋』を読みました。全部で九つの短篇からなり、昭和50年から53年までの間に発表された作品を集めたものらしいです。内容的には、武家ものと市井ものと両方が含まれ、以前は中公文庫にも入っていたとのこと。
武家ものとしては、「鬼気」「一夢の敗北」「梅薫る」の三編が典型的なものとして挙げられます。「鬼気」は、老武士の評判を疑った若者たちが、老人の鬼気迫る表情におびえて逃げる話。「一夢の敗北」は、細井平州を斬ろうと部屋まで行ったものの、全く平常心で動揺のない様子を見て、引き下がってしまう話です。「梅薫る」は、武家ものの中でいちばん印象的な佳編です。興津兵左衛門の娘・志津が、なぜ江口欽之助との婚約が破談になり、今の夫である保科に嫁ぐことになったのか、その真相が、父親によって語られます。
市井ものは、博奕で女房と別れるはめになった男が、女房の再婚相手が実はやくざな悪党であることを知り、対決するという「夜の橋」、女房の裏切りにあった男が、女房殺しの犯人を探す「裏切り」、親方の娘が元職人の男をあきらめきれずに訪ねていく「冬の足音」、転落していった姪の歩いた道をたどる「暗い鏡」というように、暗いトーンが多くなっています。
ただし、中には異色の作品もあります。その一つが、「孫十の逆襲」です。これは、山村の百姓たちを主人公にしながら、野武士の一団から村を守る戦の話です。女房に先立たれ、孫たちと共に山村の百姓暮らしを楽しむ孫十は、隣村に侵入した「野伏せり」たちに対抗して、村を守る指揮を執ることになります。村で戦に出たことがある唯一の男だったからでした。実際には、朝倉方に加わり、織田信長の猛攻から逃げ回っただけだったのですが、隣村から逃げてきた人たちの惨状を見て、孫たちを犠牲にすることはできないと知恵をしぼります。出てきた結論は、先手必勝のゲリラ的夜襲でした。まるで黒沢映画を見るようなユーモアと迫力です。
もう一つは、武家ものなのに、奉公人のけいという娘が中心となる、「泣くな、けい」という作品です。家付き娘の権高な女房に頭が上がらない相良波十郎は、妻の不在時に、酔った勢いでけいの寝部屋を襲ってしまいます。ところが、妻女が胆石で急死し、さらに御物蔵にあった貞宗の短刀を研ぎに出した後に戻っていないことが判明します。どうも、亡くなった妻が、夫の不在時に男に貢いだようなのです。今は、隣国赤羽藩の神保七兵衛に売られたまでは判明しますが、相良波十郎は蟄居謹慎の身となってしまい、百両を持たせて取り戻しに行かせたけいの帰りを待つしかないという、藤沢版「走れメロス」の世界です。ただし、太宰とは違い、あまりに深く人間を猜疑するような深刻さはなく、結末はおおむねハッピーエンドで、後味も良いものでした。