地元紙である山形新聞に連載中の「山響クロニクル・50年の軌跡」が興味深いです。5月17日付けの記事は、草創期の頃の音楽教室についてのもので、「喜ぶ姿がモチベーション」とあります。取材した伊藤律子記者は、もし山形県出身であれば、音楽教室を体験した世代なのかもしれません。記事によれば、草創期には高校の音楽教室から出発したとあります。山響創立の1971年には私は高校を卒業していますので、もちろん高校の音楽教室の経験はありません。翌72年からは小中学校にも対象を拡大したとあります。実際には、自意識過剰気味な高校生よりも小中学生のほうがストレートに音楽を受容できた面もあったのかもしれません。高校の方も大学進学率上昇の社会情勢にあわせて「普通科活性化事業」が展開されるなど、昭和60年ころには、県の事業の方向性は違う面にむいており、一部の進学校では音楽教室などを実施する余裕がなかったのかもしれません。一方で、創設指揮者の村川千秋氏を取り巻く音楽仲間のバックアップにより、音楽教室を継続した学校もあったのだろうと思います。継続するということは難しいことです。ましてや50年も続くということは、並大抵の苦労ではなかったはず。関係者の努力に、頭が下がります。
山響創設〜草創期の頃、私は大学生活を終えて関東某県に就職し、そこで同郷の女性と結婚し生活していたのでしたが、原爆症に苦しむ父親の願いを入れてUターンすることを決意した頃です。都会の文化的環境をあきらめる代わりに、山響の存在は魅力的に映ったことは確かです。とりわけ、仙台フィルの創設で楽員が多く移動してしまうという危機の時期にも、弦楽アンサンブルが安定していた印象があります。山響の50年は私自身の半生とも重なり、格別の感慨があります。
山響創設〜草創期の頃、私は大学生活を終えて関東某県に就職し、そこで同郷の女性と結婚し生活していたのでしたが、原爆症に苦しむ父親の願いを入れてUターンすることを決意した頃です。都会の文化的環境をあきらめる代わりに、山響の存在は魅力的に映ったことは確かです。とりわけ、仙台フィルの創設で楽員が多く移動してしまうという危機の時期にも、弦楽アンサンブルが安定していた印象があります。山響の50年は私自身の半生とも重なり、格別の感慨があります。
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