電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

プロコフィエフ「交響曲第5番」を聞く

2007年03月04日 08時10分35秒 | -オーケストラ
このところしばらく、プロコフィエフの「交響曲第5番」を聞いていました。プロコフィエフの音楽は、「ロメオとジュリエット」「シンデレラ」の音楽やピアノ協奏曲第3番、ヴァイオリン協奏曲第1番など、ずっと好きで聞いてきました。けれど、交響曲のLP/CDを購入したのは比較的新しく、小沢征爾指揮のベルリン・フィルの紙箱全集を購入したのが最初です。先に、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団によるシューマンの交響曲全集と一緒に、セルとクリーヴランド管によるプロコフィエフの交響曲第5番を見つけて狂喜乱舞、もう嬉しくって。

この曲は、1944年に作曲され、1945年の1月13日に、作曲者自身の指揮により、モスクワで初演されたとのことです。アメリカ初演はクーセヴィツキー指揮のボストン交響楽団が行われたそうですが、ジョージ・セルは、1947年の1月にクリーヴランド管弦楽団の演奏会でこの曲を取り上げ(*)、1950年代には何度も演奏会の曲目として取り上げています。例の、カラヤンの自伝に収録されている「プローベ」という論文に描かれた、カラヤンがクリーヴランド管を振ることになったとき、プロコフィエフの5番の交響曲を取り上げるよう、セルは何度も強く推した、という記述も、たぶんこの流れの中にあったのかも。きっと、セルがいたくお気に召した曲だったのでしょう。

第1楽章、アンダンテ。大きな音楽です。キラキラした輝きのある、童話的な神秘性も持っている旋律も豊富です。音の跳躍が大きく、さらに音を微妙にずらしたりするプロコフィエフのメロディには意外性がありますが、響きは美しく、リズムは活気があります。
第2楽章、アレグロ・マルカート。小刻みな弦楽の動きが不安感や浮遊感を表すようです。演奏のスピード感が心理的な落ち込みを避け、推進力を維持しています。
第3楽章、アダージョ。スケールの大きな悲歌です。ゆったりしたテンポですが、緊張感を失わない荘重さを持っています。
第4楽章、アレグロ・ジョコーソ。弦楽セクションの細かなパッセージがきわめて明瞭です。オーボエやファゴット等、木管楽器の妙技がふんだんに展開されます。そして、圧倒的な盛り上がりを見せます。

セル盤は、全体に速いテンポで緊張感と同時代性を感じさせながら、プロコフィエフ本来の旋律の美しさを存分に発揮した、実に立派な演奏。第2楽章の不安感・浮遊感が秀逸だと思います。第3楽章のアダージョはゆっくりしたテンポで、荘重な堂々たる音楽です。
小沢盤は、テンポはゆったり。響きの調和が、すでに「現代音楽」ではなく、20世紀の古典となった音楽だな、と感じさせます。

■セル指揮クリーヴランド管、1959年、クリーヴランド、セヴェランス・ホールでのアナログ録音。(SONY SRCR-2558)
I=10'30" II=7'40" III=11'35" IV=9'06" total=38'51"
■小沢征爾指揮ベルリン・フィル、1990年、ベルリン、イエス・キリスト教会でのデジタル録音。(DG 463-765-2)
I=11'51" II=8'50" III=11'13" IV=9'49" total=41'43"

作曲家の近藤浩平氏は、プロコフィエフの音楽を、実現しなかった「幻の理想社会」のための音楽としてとらえ、スクリャービンやロシア・アヴァンギャルドの作曲家との関わりの深さを指摘しています。また、ショスタコーヴィチとの対比において、"ショスタコヴィチの音楽が「現実のソビエトの音楽」とするなら、プロコフィエフの音楽は、「現実には存在しなかった幻の理想社会としてのソビエトの音楽」である。" とも言っています(*2)。ストラヴィンスキー、ラフマニノフ、ショスタコーヴィチらと流儀は違いましたが、アレクサンドル・ラザレフ氏が指摘する(*3)ように、プロコフィエフの音楽の素晴らしさは、普遍的な価値を持つもののように思います。

(*):George Szell Cronology ~ Database Search George Szell Performance より
(*2):セルゲイ・プロコフィエフ~実現しなかった「幻の理想社会」のための音楽~近藤浩平氏のプロコフィエフ論
(*3):プロコフィエフについて、他~アレクサンドル・ラザレフ氏へのインタビュー~日フィル・マエストロ・サロン
(*4):プロコフィエフの交響曲第5番のLPをほしいな、と思った最初は、マルコム・サージェントがロンドン響を指揮したコンサートホール盤でした。結局、ご縁がなくて終わりましたが、今でもこのLPのジャケット写真を覚えています。

写真は、音楽之友社刊の『プロコフィエフ』(井上頼豊著)と、「ステレオ芸術」誌に掲載された中島健蔵氏のプロコフィエフ来日時の回想記事、小沢征爾盤(左下)とセル盤(右下)。
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三月の空は

2007年03月03日 07時05分02秒 | 散歩外出ドライブ
二月から三月上旬の空は、スカイラインがあざやかです。山形市がある村山盆地で西の方を眺めると、真っ白な山並みが朝日に映えて、実に美しい景色です。気温が低いので、湿度もそれほど高くなく、空気が澄んで遠くまでよく見えます。
これに対して、三月下旬から四月の空は、時折降ってくる黄砂の影響や、田んぼに水が入り始めるお彼岸過ぎの陽炎により、日によって条件がだいぶ異なります。カメラを持って散歩に出るにはいい季節なのですが、撮影条件はやや厳しくなるように思います。
写真は、つい先日、妻と映画を見に出かけたときに、山形駅西の霞城セントラルとかすかな飛行機雲を撮影したものです。見えるかな?
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最近見た映画は

2007年03月02日 06時36分46秒 | 映画TVドラマ
最近見た映画は、「幸福のチカラ」と「墨攻」です。

よく、頭は切れるんだが堅実さがなくて、あぶなっかしい人がいるものです。実直に働くよりも、賢く立ち回って一攫千金を狙うタイプ。「幸福のチカラ」の主人公は、まさにこのタイプの典型ですね。高額な医療機器の販売で一儲けしようと考えた結果が、全然売れずに在庫の山。すっからかんになり、生活を支えてきた奥さんも愛想をつかして去っていってしまう。最愛の息子と一緒にホームレス生活に陥り、ようやく生活に必死になります。
で、つかんだチャンスが株式仲買人の研修。持ち前の頭脳と口八丁手八丁の才能を生かして、ようやく這い上がるお話ですが、いやはや、米国のホームレス生活の実態がこれでもかと描かれます。アンタ、よく頑張ったねと言うべきか、それとも教会の慈善事業があって良かったねと言うべきか。サクセス・ストーリーに感動するよりも、なんとなくあぶなっかしいタイプの人間の典型を見てしまうのは、厳しすぎる見方でしょうか。

次に「墨攻」ですが、酒見賢一原作『墨攻』とはだいぶ違う感じでした。原作では、アホ王子が頭に来て革離を殺害するのですが、映画では王子が革離に心酔する。原作にヒロインは登場しませんが、映画ではお約束の場面がちゃんと用意されます。たぶん、原作→劇画→映画、という経過をたどるうちに、少しずつ変化していったものがあるのでしょう。
先の大河ドラマ「風林火山」でも、山本勘助がたくさんの甕を埋めて水を張り、水面の振動の様子から地中でトンネルを堀る状況を把握する、全く同じネタの場面が出ていました。もっとも、これは宮城谷昌光作品でも既出の場面。文系オンチの私が知らないだけで、孫子や墨子の戦術として、中国では有名なのかもしれません。
それにしても、後味の悪い大量殺戮の映画でした。おまけに最後は声が出ないために助けを呼べない哀れさ。水面をたたく水の音に、いいかげん気づけよ、と思いましたです、ハイ。
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居酒屋のテレビが

2007年03月01日 06時42分03秒 | 散歩外出ドライブ
ふと気がついたら、居酒屋のテレビが、いつのまにかブラウン管から薄型の液晶テレビに変わって来ています。昔は、居酒屋の一角の、客の視線の集まる場所だったのに、今ではインテリアの一部になってしまっています。もしかすると、いつのまにか映像も浸透しているのかもしれませんね。

ちょいと出張がありましたので、文庫本とポータブルCDプレイヤーで電車の時間を楽しみました。ディケンズの『二都物語』上巻と、プロコフィエフの交響曲第5番。演奏はジョージ・セル指揮クリーヴランド管。鮮烈明快な演奏ですが、童話的な神秘性も充分に持っています。併録はグラフマンとのピアノ協奏曲第3番。こちらはダブってしまいましたが、まぁいいでしょう(^_^)/

写真はだいぶ前の新雪の風景です。暖冬で、こんな風景が今冬は珍しかった。
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