電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

雪が降る月曜朝の通勤は超ノロノロ運転に

2014年12月16日 06時04分50秒 | 季節と行事
毎年のことですが、その冬で初めての本格的な雪降りになった朝は、通勤の車がノロノロ運転となるために、かなりの渋滞になります。とくにそれが月曜の朝だったりすると、超ノロノロ運転が延々と続く大渋滞となってしまいます。昨日の月曜も、たいへんな渋滞になってしまい、いつもの通勤時間の倍以上もかかってしまいました。平均車速は20km/hにもなったでしょうか、NHK-FMなどラジオやカーステレオの音楽を聴きながら、ひたすら辛抱してハンドルを握ります。その結果、こんな大渋滞の中を運転するのはゴメンだと、多くの人が出発時間を速めますので、通勤時間帯は朝早い方に分散することになります。

実は、単純に本人が家を出る時刻を早めるだけではありません。車庫から道路に出るまでの除雪をしなければなりませんし、妻はお弁当を作る時間が早まることになりますので、影響は家族全体に及びます。職住接近の方や自営業の方々はあまり想像できないかもしれませんが、雪国の朝、とくに雪が降る月曜の朝は、なかなかタイヘンなのです。

もっとも、同じ山形県内でも、すでに1m以上の積雪量となっている豪雪地帯の方々からは、アンタのところなどまだまだいい方だとお叱りを受けるかもしれませんが(^o^;)>poripori



写真は、山形テルサホールのブラインド越しに見た、山形駅西口付近のイルミネーションです。

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山響第241回定期演奏会でチャイコフスキーとドヴォルザークを聴く

2014年12月15日 06時02分04秒 | -オーケストラ
衆議院議員選挙の投票日となった雪の日曜日、せっせと雪かきをして汗をかいた後で、山形交響楽団第241回定期演奏会(2日目)を聴くために、山形テルサホールに出かけました。本日のプログラムは、

(1) チャイコフスキー/歌劇「エウゲニ・オネーギン」作品24より「ポロネーズ」
(2) チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35
(3) ドヴォルザーク/交響曲 第5番 ヘ長調 作品76
 イジー・シュトルンツ指揮、山形交響楽団
 ヴァイオリン:二村英仁

というものです。

選挙運動の期間中は、ホテルや料亭、飲食店も閑古鳥が鳴くのだそうですが、演奏会の方も多少影響を受けているのでしょうか、自由席のあたりに空席が目立ちます。それでも指定席のほうはいつも固定客が確保しているらしく、充分とは言えないがまずまずといったところでしょうか。

1曲目:チャイコフスキーの歌劇「エウゲニ・オネーギン」Op.24より「ポロネーズ」。華やかで、よく鳴る音楽ですが、ごく短い曲です。今回の曲目が、協奏曲といい交響曲といい、いずれもけっこうな長さを持っている音楽ですので、こういう短い曲を持ってきたということでしょうか。指揮のイジー・シュトルンツさんは、チェコ生まれ、長身でしなやかな指揮姿と、「大きな音を重ねるよりも、引き算していって声を浮かび上がらせる」歌劇場での指揮の特徴がうかがえる音楽作りが印象的(*1)でした。楽器編成・配置は、ステージ左から第1ヴァイオリン(8)、第2ヴァイオリン(7)、チェロ(5)、ヴィオラ(5)、右後方にコントラバス(3)という通常配置です。正面奥に、フルート(2)、オーボエ(2)、その奥にクラリネット(2)とファゴット(2)、その奥にホルン(4)とトランペット(2)、最奥部にはティンパニとトロンボーン(3:うち1はバス・トロンボーン)というものです。コンサートマスターは高橋和貴さんで、犬伏亜里さんは今回はお休みのようです。

2曲目:チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。独奏者の二村英仁さんは、スラリとした長身で、イジー・シュトルンツさんにも負けていません。ステージに並ぶと、私など思わずうらやましくなりそうな(^o^;)二人です。第1楽章:アレグロ・モデラート~モデラート・アッサイという指示ですが、ややゆっくりめのテンポで、堂々と始まります。そして、なんとも見事な独奏ヴァイオリン! 第2楽章:カンツォネッタ、アンダンテ。オーボエとクラリネットとファゴットにホルンが加わり、独奏ヴァイオリンが molto espressivo に入ってきます。クラリネットが低く太い音を聴かせるあたりは、ぞくぞくするほどステキです。独奏ヴァイオリンと各パートのトップとが織りなす緻密で繊細な響きのところなどは、この緩徐楽章の醍醐味でしょう。第3楽章:フィナーレは、一転してアレグロ・ヴィヴァチッシモで。二村さんにもオーケストラにも、勢いと活力があります。シュトルンツさんの指揮も、リズムが明快でとてもわかりやすく感じました。

聴衆の拍手に応えて、二村英仁さんのアンコール。パガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番から、第3楽章だそうですが、いや~、唖然呆然、呆気にとられるほどの見事さでした。



15分の休憩の後は、3曲目のドヴォルザーク「交響曲第5番 ヘ長調Op.76」です。この曲は、だいぶ前から当方お気に入りの音楽となっており、すでに記事にもしております(*2)が、もちろん実演は初めてです。楽器編成が少し追加され、まだ若そうなクラリネット奏者がバス・クラリネット持ち替えで加わるとともに、ティンパニの左にトライアングルが座ります。もしかしたらチェロも増えていたのかな?
第1楽章:アレグロ・マ・ノン・トロッポ。おなじみの出だし、明るく前向きで希望にあふれた音楽。こういう音楽は、長距離通勤の友として好ましいというだけでなく、実際の演奏会でも実に魅力的に響きます。第2楽章:弦と木管による実に美しい、優しくやわらかい音楽を聴くことができます。こういうノスタルジックな世界は、まさにドヴォルザークの魅力です。第3楽章:アンダンテ・コン・モト・クアジ・リステッソ・テンポ~アレグロ・スケルツァンド。トライアングルが活躍します。劇場で場面が転換するように、沸き立つような活力がふきだす、印象的なスケルツォです。第4楽章:フィナーレ、アレグロ・モルト。短調で劇的に始まります。喩えが変ですが、騎馬軍団が救援に駆けつける場面に使ったらかっこいいだろうと思える始まりです。さらに演奏が進んで、途中のオーボエからバス・クラリネットが受けるところは、すごく印象的です。そして田舎風ののどかさの後に、再び冒頭の主題をうまく再現して高らかに高揚し、終わります。わーお!ブラーヴォ!

イジー・シュトルンツさん、アンコールに第3楽章のアレグロ・スケルツァンドを選びました。沸き立つような舞踊のリズム。良かった~(^o^)/

終演後のファン交流会では、二村さんが東日本大震災の復興には十年はかかることから、経験を風化させないよう、息長く支援することの大切さを訴えました。



今回で4回目(演奏会は3回目)の来県となる指揮者のイジー・シュトルンツさんは、山響とファンクラブの忘年会に参加した話で笑わせてくれました。たしかに、日本風の忘年会は、チェコ出身のシュトルンツさんには思わずカルチャーショックだったかもしれません(^o^)/



本当は、二村さんのCDが欲しかったのですが、すでに売り切れてしまったらしく、残念でした。帰路はまだ雪もさほどではなく、運転もあまり恐い思いをしないで帰宅することができました。

(*1):山響第223回定期演奏会でスメタナ、ベートーヴェン、ドヴォルザークを聴く~「電網郊外散歩道」2012年8月
(*2):ドヴォルザークの「交響曲第5番」を聴く~「電網郊外散歩道」2007年5月

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本日は、山響第241回定期演奏会

2014年12月14日 06時02分40秒 | 散歩外出ドライブ
昨晩は、恒例の忘年会でした。美味しいお酒をいただき、ご機嫌で帰宅したところ、娘は山響定期に出かけたのだとか。なんと、出し抜かれたか(^o^)/

本日は、午前中に衆議院議員選挙に行き、午後から図書館に本を返却し、16時からの山響の第241回定期演奏会を聴く予定です。本日のプログラムは、

チャイコフスキー/歌劇「エウゲニ・オネーギン」作品24より「ポロネーズ」
チャイコフスキー/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35
ドヴォルザーク/交響曲 第5番 ヘ長調 作品76
 イジー・シュトルンツ 指揮、山形交響楽団
 ヴァイオリン 二村英仁
 山形テルサホール

というものです。

さて、今日のお天気はどうでしょうか。

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石渡博明『安藤昌益の世界』を読む

2014年12月13日 06時20分35秒 | -ノンフィクション
まだ若い頃、たぶん学生時代に、岩波新書の目録の中に、ハーバート・ノーマンの『忘れられた思想家~安藤昌益のこと』という二巻本があることから、青森県八戸市に住んでいたという江戸時代の思想家・安藤昌益に興味を持ったことがありました。残念ながら、ノーマンの岩波新書は入手できず、岩波文庫の安藤昌益著『統道真伝』二巻をパラパラと読み、なかば驚き、なかば呆れたものです。

驚いたというのは、古代の聖人たちへの批判、とくに釈迦への批判の痛烈さでした。妻子を捨てて自分の修行に没入し、独身主義で女性を修行の妨げとし、両親の性愛の結果として生まれてくる自然の営みを罪悪視する教えは虚妄で有害だと喝破する痛烈さにびっくりしました。ましてや、お布施や喜捨を称揚し成仏を約束する僧侶たちの、社会への寄生性を合理化する仏教の教説を糾弾する論調の激越さに、正直言っていささかビビりました(^o^)/
また、独特の用語法や、屁理屈にしか思えない様々な議論の内容などは、若い青年(私)の理解を超えており、「当時としては画期的かもしれないが現代には縁の薄い古典」として、書棚に納めるだけに終わっていました。

ただし、安藤昌益という人物がどういう人なのか、なんでまた八戸にそんな思想家がポコッと存在したのか、という興味は底流としてあったようです。たまたま図書館で、2007年に草思社から刊行された単行本、石渡博明著『安藤昌益の世界~独創的思想はいかに生まれたか』を見つけた時に、謎の人物に対する興味を覚え、読んでみようと手に取った次第です。

本書の構成は、次のようになっています。

第1章 安藤昌益の生涯
 誕生の地・大館/修行の場・京都/展開の場・八戸/終焉の地・大館
第2章 安藤昌益、復活の歴史
 狩野亨吉による紹介/奥州街道の初宿・千住/書物の運命/戦前・戦中の研究/戦後の資料発掘/「安藤昌益全集」の刊行/海外での研究
第3章 安藤昌益と自然真営道
 万有存在の法則を求めて/安藤昌益の基本用語/易批判と互性の論理/思考の深化/自然をどう見るか/直立・直耕する人間
第4章 安藤昌益の医学と医論
 医学界への批判/伝統的医学論への批判/真営道医学の世界
第5章 安藤昌益の社会思想
 社会の基本とは/「自然の世」と「法の世」/版図拡大をどう考えるか/安藤昌益の世直し論

それによれば、安藤昌益は今の秋田県大館市二位田の豪農の次男として生まれたらしいです。京都に出て禅林で仏教修行に励み、やがて無我の境地に至り、悟りを得るという体験を得て師から印可を受けるのですが、やがて自らの解脱体験を一種の錯覚であるとして否定するようになります。著者はその理由を、青年期の性の問題を越えられず、むしろ男性だけの仏門の倒錯性や仏教の教えにある虚妄性が、仏門からの離脱を促したのでは、と見ているようです。

仏門を去った安藤昌益は、新たな方向性を医学の道に求め、当時の名医・味岡三伯に師事します。医学の豊富な経験を積んだ昌益は、壮年期にさしかかった頃に、奥州南部・八戸藩の城下に移住します。ここでも、町医者でありながらその医術の実績と人柄から尊敬を集めるようになり、かなりの弟子たちが集まるようになります。その後、大館の実家の兄が逝去したので故郷に戻り、実家には養子を取らせて後継とし、八戸には同じく良医だったらしい息子を残し、自分は大館に住んで医者を続け、そこで没しているようです。

では、彼の過激なまでの思想は、どのように形成され、発表され、後世に遺されたのか。実は、弟子たちは師の医術の根本にある思想の危険性を充分に自覚していたようです。だからこそ、おそらく京都にある妻の実家の版元から問題部分を削除して出版した『自然真営道』三巻本以外の大著の原稿を、それぞれ書き写し、手許に秘蔵して後世に伝えたのでしょう。著者のこの推測は、説得力があります。

そして、安藤昌益の過激な思想の形成には、実は当時の医療の現状に対する批判があった、とする著者の見解もまた、説得力があります。当時、吉益東洞に代表される古方派医学の台頭により、攻撃的な薬物療法が専らとなり、薬剤による副作用には目をつぶり、結果責任に対しても「生死は医のあずからざるところ」などと言ってはばからないような、医療の荒廃があったようで、安藤昌益はこれを痛烈に批判していたようなのです。そして、伝統的医学の体系の中に、こうした医療の荒廃を生み出す素地があるとして、封建的な壮年男子中心の医学体系(*1)を、生命の本源である婦人科を冒頭に置き、小児科、壮年科、老人科という順序に病を考察し治療を施すべきだというように、人の成長に沿って作り変えようとした、と指摘しています。また、精神疾患・精神障害も病という観点から細分化された多くの症例をあげ、薬物療法と対話療法で臨む、とした点を評価(p.201~3)しています。

本書「まえがき」にある、

安藤昌益は、一言でいえば、食と性愛を基軸にして宇宙の全存在を一大生命とと見なし、そこから平和で平等な社会を希求した江戸時代中期の「いのちの思想家」である。

という要約が、なるほどと納得できました。農山漁村文化協会版『安藤昌益全集』を執筆・編集した著者ならではの好著であると感じるとともに、学生時代からの「謎の人物」の姿が、かなり解明されたように思い、嬉しく感じました。

(*1):「本道」と呼ばれた当時の内科医学では、医学の対象は皇帝や家長としての成人男性であり、大部分がこの内容で、婦人科や小児科は「巻末に申し訳程度に置かれる構成になっていた」(p.193)とのことです。

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つい手が伸びる音盤、ついクリックしてしまう録音

2014年12月12日 06時04分18秒 | クラシック音楽
当ブログでは、いつの頃からか、1週間に1枚(曲)くらいのペースで、CDやLP、あるいはパブリック・ドメインとなったMP3/FLAC形式の音楽ファイル等を取り上げ、いかにも素人音楽愛好家らしい考察や感想などを記事にしています。このスタイルですと、一度取り上げてしまったものは余程のことがない限り二度と登場することはないわけで、当方のふだんの音楽享受のすがたとはだいぶ隔たりがあります。

実際には、日常的にしばしば手が伸びる音盤や、ついクリックしてしまう音楽ファイルというのがあり、機会ある毎に何度も繰り返し聴いています。いわゆるお気に入りの音楽(*1)、演奏です。例えば、初めてハイドンの弦楽四重奏曲の楽しさを知ったコダーイ・カルテットによる「ひばり」など作品64、レオン・フライシャー(Pf)、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管によるベートーヴェンの「ピアノ協奏曲」第1番や第4番、ピエール・フルニエ(Vc)、ジョージ・セル指揮ベルリンフィルでドヴォルザークのチェロ協奏曲、あるいはヤン・パネンカ(Pf)によるシューマンの「謝肉祭」、セル指揮クリーヴランド管によるシューマンの交響曲第3番「ライン」、あるいはレリ・グリスト(Sp)、バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルによるマーラーの交響曲の第4番といったものです。音楽ファンならば、こういう曲や演奏をお持ちの方が多いと思いますが、いわば不動の定番。こういう音楽は、自宅でほっとしたときに、ついCDに手が伸び、パソコンの音楽ファイルをクリックしてしまうことが多いものです。

これに対して通勤の音楽は、新しく購入したり、あまり聴かずに放置していたCDを繰り返し聴くなど、まだお馴染みとまでは言えない音楽や定番以外の演奏に馴染む機会となっています。長距離通勤や渋滞ノロノロ道路は、ドライバーに辛抱強く音楽を聴くことを強いる面があります。

(*1):私家版「私の好きな曲」~「電網郊外散歩道」2007年3月

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読書週間の書店くじは外れでした

2014年12月11日 06時05分39秒 | Weblog
日本書店商業組合連合会が主催する、秋の読書週間の書店くじの発表(12/5)を確かめてみたら、残念ながら外れでした。特等の50,000円の図書カードが当たったら、たくさん本を買おうと目論んでいましたが(^o^)、残念無念(^o^)/

もっとも、今のところいちばん買いたい本はまだ発行されていないので、もし当たったとしても、すぐに役立つわけではないのですが(^o^)/

でも、大型書店で買い物かごをカートに載せて、目についた本をどんどん買うという、大人買いというかお大尽ショッピングを、一度はやってみたいものです。そういう初夢でもいいなあ(^o^)/

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紙面を細かく配慮することと筆記具の本数

2014年12月10日 06時05分10秒 | 手帳文具書斎
手帳やノート、あるいは手書きの文書の紙面の出来上がり状態について、文字や色遣いや線の太さなどのバランスに細かく配慮することと、使い分ける筆記具の本数には、正の相関があるように思います。デザイン系の人の筆箱や机上のペン立てには、様々な筆記具がぎっしり入っていることが多いように思います。これに対して、多忙な現役ビジネスマンは、それこそ万年筆や多機能ペン一本で飛び回っているのでしょう。

では、私の場合は?
デザイン系の仕事ではないし、多忙で飛び回るような状況にもない。単に文房具が面白いという、趣味・道楽の世界なのかも(^o^)/

その証拠に、三菱のスタイルフィットStyleFitについて、なんだかんだ文句を言いながら、いつのまにか細身の単色軸まで増えてしまっています。中身はシグノのブルーブラック 0.5mm。握るところが細すぎるので、シリコン・ゴム管をセットしたら、なかなか具合が良いので、普通に定番の仲間入りです。





なんだか、パワータンクのリフィルの太さと、ほとんど変わらないような気がするんですが、気のせいかな?


三菱のパワータンクの担当者が肩身の狭い思いをするかもしれないので、言い直します。たぶん、気のせいだね(^o^)/

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ヒルトン『失われた地平線』を読む

2014年12月09日 06時03分50秒 | -外国文学
ヒルトンと言えば、『心の旅路』の作者であり、大戦間期の不安な時代を舞台に、教養ある知識人や中産階級以上の人たちの姿を描く作家、という印象を持っています。2011年の河出文庫で、ヒルトン著・池央耿訳『失われた地平線』(原題:LOST HORIZON)は、第一次世界大戦の悲惨を経験し、次の戦争の到来を予感しながら、地球最後の楽園を夢見て構想されたであろう、文明論的な広がりを持つ冒険小説です。

プロローグは、パブリック・スクールの同窓生で独り身のイギリス人が三人、ベルリンで再会したところで、共通の知人の話題が出ます。バスクルの革命に際し、避難する民間人の輸送に当たっていた飛行機が乗っ取られ、カシミールの山岳地帯に消えた事件があり、行方不明者の中に友人コンウェイの名前があった、という一件です。「グローリー」コンウェイとあだ名された英国領事ヒュウ・コンウェイとはどんな人物か。

ケンブリッジの競艇では代表選手で、雄弁会では指折りの論客、あれやこれやで賞を獲り、ピアノは玄人はだし、多芸多才で将来の首相候補と目されている。戦争ではフランスの塹壕戦で負傷して殊勲賞を受け、オックスフォードに戻ってしばらく指導教官をつとめ、1921年には東洋に行って語学に達者になった。イギリス領事。新人にも親切で強い印象を残す。学校時代、校長は「グローリアス、燦然たる」と評し、卒業式にはギリシア語で答辞を述べ、学園祭の芝居では一級品の役を演じ、水際立った男ぶりで精神と肉体が拮抗して漲る活力など、エリザベス朝の文人を思わせる (筆者要約)

というのですから、これはすごい! まさしくスーパーマンというべきでしょう(^o^)/

第1章は、まさにこのハイジャック後の機内の様子です。第2章では、インドだかパキスタンだかから北へ向かった飛行機が、カラコルムを越えて孤絶の山岳地帯に着陸しますが、操縦士は死亡してしまいます。第3章では、コンウェイを含む乗客4人が、シャングリ・ラの僧院に救出され滞在することとなります。四人の滞在者は、それぞれに事情があり、歓迎する者も不満を持つ者もいますが、第4章では謎の僧院でのゆったりした生活が描かれます。第5章以降では、シャングリ・ラの僧院の文化的水準の高さが描かれ、図書室が充実し、羅珍という少女?の演奏するピアノの曲がモーツァルトやショパンであるように、名だたる作曲家のすべての曲を取り揃えているそうな。しかも、洗練された陶磁器や蒔絵細工などの古美術に囲まれ、静謐と精緻と細美の中に生活するのです。(ふーむ、このあたりは、いかにも階級社会・英国の知識人らしく、楽園におけるゴミ処理やし尿処理の方法等については言及しないのですね。)

第7章と第8章では、シャングリ・ラのラマ僧院の歴史と秘密が明かされます。そして、次の大戦で世界の強者が相戦い、滅ぼし合った後に、柔和な者が地を受け継ぐというイメージが語られます。なんだか、どこかのカルトに利用されそうな(^o^;)>poripori
第9章からは、コンウェイが1人でどう判断し、行動するのかが焦点になって来ますが、せっかくの物語を楽しむことができるように、あらすじはここまでといたしましょう。



本書を読み、おぼろげながら遠い記憶がよみがえります。中学生の頃に子ども向けに訳された本を読んだのだったか、それとも映画か何かの記憶が残っているのか、はっきりしませんが、たしかコンウェイが羅珍にひそかに思いを寄せており、羅珍は実はコンウェイとマリンソンと二股をかけていて、コンウェイとマリンソンが協力して岸壁を乗り越えるが、羅珍はマリンソンのほうを選んで行ってしまう、というふうに単純化されていたと思いますが、はて?
私も、後に発見されたコンウェイと同様、記憶喪失症にかかっているのかもしれません。原因は熱病ではありませんが(^o^;)>poripori

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ペンを握る角度と筆記具適性~立てて書く癖、寝せて書く癖

2014年12月08日 06時04分01秒 | 手帳文具書斎
ペンを握る角度を話題にしようと思ったら、指の第一関節は指先の方か付け根の方か、よくわからなくなりました。調べてみたら、どうやら指先の方が第一関節で、付け根と第二関節の間を基節、第一関節と第二関節の間を中節、第一関節の先のほうを末節と言うらしい。なるほど、こういう風に名前が付いていれば、ペンの握り方を具体的に言葉に表すことが可能です。

さて、筆記具はそれぞれの癖で好きなように使えばよいとはいうものの、ペンを握る角度とそのペンの適性は、合っていた方が良いようです。ペンを握って自然に紙の上に置いたときに、親指と人差し指と中指で軽く握ったペンの尻軸が、手のどのあたりに接しているかで、立てて書くタイプと寝せて書くタイプとを区別することができそうです。

(1)人差し指の付け根のあたりに接している……標準タイプとすると、
(2)人差し指の付け根より先のほう(基節)で接している……立てて書くタイプ
(3)人差し指の付け根より親指側で接している……寝せて書くタイプ

と区分することにします。

毛筆や筆ペンは立てて書くタイプで、筆ペンで寝せて書くのは至難の業でしょう。ボールペンでも万年筆でも、多くの筆記具は標準タイプで書きやすく設計されていると思いますが、どちらかといえばボールペンを寝せて書くのは不適で、カリカリとひっかかって書きにくいと感じます。ボールペンは、標準からやや立てて書くのに適している筆記具のようです。これに対して、万年筆はかなり適応範囲が広いようで、標準で書けば最良ですが、立てて書いてもやや寝せて書いても、それなりに書けてしまいます。その点、万年筆は鉛筆なみの適応性を持ち、きわめて優秀だと感じています。



幸いに、私のペンの持ち方は典型的な標準タイプで、これは明らかに小学校低学年で担任していただいた女の先生の丁寧な指導のおかげです。毎日数人ずつ、交代で教室に居残りして書き取りを練習するという指導でした。丁寧に書かないとやり直しをさせられるし、鉛筆の持ち方が悪いと、優しく、でも徹底して直されました。今になって振り返ると、本当にありがたい限りです。今は、ああいう指導は少なくなってしまったのでしょうか。

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NHK-FM「きらクラ!」について

2014年12月07日 06時02分33秒 | クラシック音楽
NHK-FMの番組「きらクラ!」は、たぶん「気楽にクラシック」あるいは「お気楽クラシック」などの短縮形かと思いますが、番組パーソナリティのふかわりょうさんと遠藤真理さんの会話の楽しさと、イントロクイズ「きらクラドン!」などの企画が面白くて、よく聴いています。日曜午後の本放送は、週末農業のお供として、月曜朝の再放送は、通勤のお供として聴いている、という次第です。冬になって、週末農業もお休みに入ると、日曜午後は読書かニャンコとのくつろぎタイムになりますので、「きらクラ!」の聴取頻度はますます高くなります。

ところで、過日の「ベートーヴェン祭り」の結果は、たいへん興味深いものでした。ベートーヴェンの人気曲の第1位は、私は交響曲第3番「英雄」だろうと思ったのでしたが、なんとピアノ協奏曲第5番「皇帝」でした。番組リスナーの皆さんは、やはりクラシック音楽に親しみを持っている層なわけですから、一般の人たちとは若干傾向が異なるだろうとは思っていましたが、思わず「え~!」とびっくりしました。でも、その理由として、第2楽章の魅力を挙げている方が多かったので、「なるほど~!」と納得でした。

番組をきっかけに、久しぶりに「皇帝」を聴きたくなって、フリードリヒ・グルダのピアノ、ホルスト・シュタイン指揮ウィーンフィルの録音が収録された廉価CDを取り出し、音量を上げて鳴らしました。なんと気持ちの良いことか(^o^)/



ところで、当方のテキストファイル備忘録から「遠藤真理」で検索したところ、このブログを始める前の、2004年の山響定期の記述が出てきました。

$ grep "遠藤真理" memo-utf.txt | sort
2004/05/22 山形交響楽団演奏会 山形市民会舘にて、夜7時から、山形交響楽団の第157回定期演奏会が開かれた。曲目はドヴォルザーク没後150年を記念し、2曲。円光寺雅彦指揮、遠藤真理(Vc)独奏によるドヴォルザークのチェロ協奏曲と交響曲第八番「イギリス」で、赤いドレスの遠藤真理嬢は定期演奏会に初デビューとのこと。東京芸大四年に在学中で、毎日音楽コンクール優勝の実績を持つ若手であり、朗々と低音を響かせ、柔軟に高音部を歌わせる堂々たる演奏ぶり。山響は後半の交響曲で立派な演奏を聞かせた。特に、第二楽章の冒頭でヴァイオリン・セクションが緊張感に満ちた力強い低音を響かせると、フルートが小鳥のさえずりのように浮かび上がる。第二楽章が集中力に満ちた楽章であることを再発見させられた。協奏曲でも交響曲でも、ホルンの快演がこころよい演奏だった。アンコールにスラブ舞曲第10番。
(以下省略)

ふーむ、遠藤真理さんがまだ在学中の頃、もう10年が経ったわけですから、真理さんが演奏家として活躍しながら一児の母になり、当方はなんとか定年退職をし、我が家のアホ猫の動作にもやや緩慢さが見えるようになりつつあるのは、当然のことなのでしょう(^o^;)>poripori

さて、今日の「きらクラ!」はどんな内容かな? 楽しみです。

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『Bun2』2014年12月号(Vol.57)を読む

2014年12月06日 06時07分38秒 | 手帳文具書斎
いつもの文具店に立ち寄り、いつもの隔月刊フリーマガジン『Bun2』の2014年12月号をもらってきました。通巻では第57号になる今号の特集は、2014年 Bun2大賞 の発表が目玉となっており、読者が選んだベスト文具30の発表が興味深いところです。
で、その結果は:

大賞(第1位)  カクノ (パイロット) なるほど! これは納得です。
準大賞(第2位) オレンズ (ぺんてる) フーン…シャープペンシルは使わないからなあ…
第3位     ココサス (ビバリー) 見たことない……

となっています。以下、30位までで私が使ったことのあるものは、第25位の「オレッタ」(*1,2)だけです。うーむ、どうも時代に乗り遅れているというか、流行には無縁のようですなあ(^o^;)>poripori



では、今年の私的文具大賞は何かと言えば、

プラチナ 古典ブルーブラック・インク 新ボトル

でしょう。容量倍増でお値段は倍以上(^o^;)でしたが、発売して間もない頃に購入、さらに、最初に定価400円で購入した30ml入りのボトル:

がそろそろ使い切る頃合いでしたので、60ml入りの新ボトル:

を追加でもう1個追加注文(定価:税別1,200円)してしまいました。

1年間に2個のボトルインクを発注したということは、このインクの消費量が多かったことを意味します。#3776ブルゴーニュ(F)、カクノ(M)など、このインクを使っているペンが多く、使用頻度も高いのが理由ですが、古典ブルーブラック・インクの特性:たいていの紙で滲みや裏抜けしにくいという長所を日々実感しているからでもあります。新ボトルでは、中にプラスチックの小さなインク・リザーバーが入っていて、インク残量が少なくなってもインク吸入がしやすく工夫されています。このあたりも、便利ポイントです。

(*1):久々に文具店を探訪しメモパッドや「オレッタ」等を購入する~「電網郊外散歩道」2013年9月
(*2):A4判の書類を軽快に持ち運ぶには~「電網郊外散歩道」2013年10月

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ミシェル・ダルベルトの演奏でシューベルト「ピアノソナタ ハ長調 D.613」を聴く

2014年12月05日 06時01分38秒 | -独奏曲
このところ、通勤の音楽として聴いているのは、ミシェル・ダルベルトが演奏したシューベルトのピアノ曲から「ピアノソナタ ハ長調D.613」です。「さすらい人幻想曲」のCDに収録されたもので、未完に終わったD.613のソナタを両端楽章とし、間にD.612の美しいアダージョを配置した形で演奏されており、なんとも不思議な優しさを持った音楽として聴くことができます。

第1楽章:モデラート。冒頭は、どこかで耳にしたような、ベートーヴェンのソナタを連想させるものですが、しだいにシューベルトらしい世界に入っていきます。まるでベートーヴェンのようではありません。だから、諦めて未完のままに放置したのでしょうか(^o^;)>poripori
第2楽章:アダージョ、ホ長調。これは、美しい音楽ですね~。
第3楽章:アレグレット。本当は速度の指示はないようなのですが、ここではアレグレットで、という解釈のようです。このCDでは、演奏の最後が楽譜通り唐突な終わり方ですので、ああ、遺作断片なんだなと感じられます。

この実にチャーミングな音楽を聴くと、ミシェル・ダルベルトがこの曲を録音しようとした意図が、なんとなくわかるような気がします。他のピアニストでこの曲を録音している人はあまり多くないようで、その中では、NAXOS のマルタ・デヤノヴァ盤(*1)は、曲を補筆完成して録音しているそうです。

私が聴いているのは、1993年1月と翌1994年1月及び6月に、DENONによってスイスのコルゾー、サル・ド・シャトネールでPCM収録されたデジタル録音で、COCO-70700 という型番のCDです。

(*1):NAXOS Music Library より、F. Schubert Piano Sonatas No.7-21, Marta Deyanova

YouTube にも、いくつかの録音や動画がありました。
まずは、第1楽章:
Franz Schubert - Piano Sonata in C major, D 613 - I. Moderato


続いてこのCDでは第2楽章として扱われた、D.612 の美しいアダージョ。残念ながら演奏者は違いますが(^o^;)>poripori
Schubert - Adagio in E Major, D. 612 (for piano)


最後に、未完の第3楽章(純粋には第2楽章):
Franz Schubert - Piano Sonata in C major, D 613 - II. Without tempo indication

ただし、この演奏では誰かが補筆してあるようで、唐突な終わり方にはなっていないようです。

マルタ・デヤノヴァ(Pf)の演奏動画もありました。
Marta Deyanova Schubert Unfished Sonata D 613.wmv


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高橋克彦『ジャーニー・ボーイ』を読む

2014年12月04日 06時03分00秒 | 読書
山形県に住んでいると、折々に「日本のアルカディア」という大げさなお国自慢にぶつかることがあります。最初にこの言葉を聞いたときは「お山の大将にもほどがある!」と思ったものでした。ところがこの比喩は、明治の女性旅行家イザベラ・バードが山形県を通過するときに、現在の川西町を中心とする置賜盆地の美しさを評して発したものだといういわれを知り、意外の感を持ちました。イザベラ・バードって、誰? 何のために東北を旅行したの? という漠然とした疑問を持ちましたが、『日本奥地紀行』というバードの著書を手にすることもなく、彼女への興味関心もいつしか薄れてきておりました。

そんな時に出会ったのが、2013年に朝日新聞出版から刊行された本書です。高橋克彦著『ジャーニー・ボーイ』は、まさにこのイザベラ・バードが日本奥地紀行に出発するにあたり、通訳兼護衛として雇った日本人従者を主人公にした物語です。



主人公の伊藤鶴吉は、「ピストル・ボーイ」というあだ名のとおり、英語が達者なだけではなく、度胸があり、喧嘩も強い青年です。外務省と英国公使館の依頼で、英国からの賓客イザベラ・バード女史の日本国内旅行の従者として働くことになりますが、この旅行には、どうやら旧会津藩がらみの不平士族の妨害があるようなのです。

明治政府は、西南戦争を鎮圧した大久保利通を暗殺されたばかりで、国内にはまだ内戦の余燼がくすぶっています。それなのに、バード女史はノミや泥水を毛嫌いしながらも、貧しい庶民の日常に目を向け、人々の生活を文章と絵で紹介していきます。さて、バードの旅はぶじに進むことができるのでしょうか?



実際のイザベラ・バードの旅(*1)は、東京から日光に行き、東照宮を見学した後は鬼怒川沿いに山を越えて福島へ抜け、会津坂下を経て舟で津川を下り、新潟に向かいます。本書の舞台は、まさにこの行程で、新潟から先の、山形県内を北上し、秋田県から青森県、津軽海峡を渡って北海道南部を巡り、船で横浜に戻る旅を全部描いているわけではありません。戊辰戦争の激戦地である会津若松や、上杉藩の中心地である米沢は通らず、わきをかすめていく理由を、新潟に住んでいる英国人夫婦のもとを訪ねるためとしており、薩長に味方した英国公使館の政治的な配慮として描いてはおりません。このあたりは、建前は別として実際はどうだったのか、作家の想像力でもう少し掘り下げてほしかった気はしますが、まあ、ないものねだりをしても仕方がないでしょう(^o^)/

高橋克彦さんの本は、以前、『火怨~北の耀星アテルイ』上下巻を読んでおり、記事にしております(*2,3)。今回の『ジャーニー・ボーイ』も、なかなか面白い本でした。

(*1):イザベラ・バード:日本奥地紀行マップ~縮尺を調整して拡大して見ると、今回の舞台となった行程がよくわかります。
(*2):高橋克彦『火怨~北の耀星アテルイ(上)』を読む~「電網郊外散歩道」2008年4月
(*3):高橋克彦『火怨~北の耀星アテルイ(下)』を読む~「電網郊外散歩道」2008年4月

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角田光代『彼女のこんだて帖』を読む

2014年12月03日 06時03分46秒 | 読書
講談社文庫で、角田光代著『彼女のこんだて帖』を読みました。2005年~2006年頃に雑誌に連載されたものに何編かを加え、きれいな写真付きの料理のレシピを添えたもので、カラー写真を美しく印刷するために、やけに厚手の紙を使っています。どうも通常の文庫本のページよりも、めくりやすさの点ではやや難ありですが、写真を見ていると、うーむ、実に美味しそうであるなあ(^o^)/

本書の内容構成は、次のとおり:

1回目のごはん 「泣きたい夜はラム」
2回目のごはん 「恋のさなかの中華ちまき」
3回目のごはん 「ストライキ中のミートボールシチュウ」
4回目のごはん 「かぼちゃの中の金色の時間」
5回目のごはん 「漬けもの名鑑」
6回目のごはん 「食卓旅行 タイ編」
7回目のごはん 「ピザという特効薬」
8回目のごはん 「どんとこいうどん」
9回目のごはん 「なけなしの松茸ごはん」
10回目のごはん 「恋するスノーパフ」
11回目のごはん 「豚柳川できみに会う」
12回目のごはん 「合作、冬の餃子鍋」
13回目のごはん 「会心の干物」
14回目のごはん 「結婚三十年目のグラタン」
最後のごはん 「恋の後の五目ちらし」
ストーリーに登場するごはんの おいしいレシピ

いずれも、ごく短い中に、失恋や離別、独身の寂しさや夫婦の気持ちのズレなどを織り込み、それでも食べることを通じて生きることを再開していくというお話になっています。



もちろん、本書にはあまり深刻なドラマはありません。例えば「ピザという特効薬」では、年の離れた高二の妹が、数か月前の夏から急にダイエットを始め、まったくといっていいほど食事を取らない。生野菜やリンゴしか口にしないという状態が、もう三ヶ月も続いているという状況です。高二という年代的には、摂食障害というか神経性無食欲症の発症を疑っても良い状況だと思いますが、本書ではピザを一緒に作ることでめでたく解決。同様に、多くの出来事がわずか8~9ページ程度で解決されてしまいます。おそらくは、『月間ベターホーム』という初出誌の性格とも関連して、あまりに深刻な話題や展開は不適当という判断が無意識のうちに働いているのでしょう。

読後、いちばん食べてみたいなと思ったのは、亡き妻を追憶する「豚柳川できみに会う」でしょうか。年代的にもよく理解できるもので、これはよかった。単身赴任の頃に読んでいたら、実用的にも役立ったことでしょうが、切なさも倍増だったことでしょう(^o^;)>poripori

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伊坂幸太郎『オー!ファーザー』を読む

2014年12月02日 06時08分41秒 | 読書
伊坂幸太郎作品は、ありえない状況を想定し、そこに日常性を展開しながらドラマを作っていくという特徴があるように感じていますが、本作『オー!ファーザー』もまた、その典型的な作品のようです。新潮文庫で読んだ今回の「ありえない状況」は、多忙で不在がちの一人の母親に父親が四人同居しているという男子高校生のお話。四人の父親は、そろいもそろって個性的で、四つの特性のエキスパートのような存在ですが、不思議に嫉妬とか独占欲とかいう性質は共通に欠損しているようです(^o^)/

主人公は、由紀夫君。高校二年生にしてはずいぶん大人びていて、ちょうど作者を若作りにして学生服を着せたような感じです。で、由紀夫君に近づいてくるのが多恵子ちゃん。名前に「子」がついているところをみると、今どきの女の子とは違うようですが、ちょっとやそっとではひるまない勝気さと聡明さを持った同級生です。

物語の始まりは、多恵子ちゃんが由紀夫君の家に押しかけていくところから。で、父親が四人もいて、全員が同居しているという秘密が明かされます。このあたりは多恵子ちゃん目線で、おやまあ! とただ驚くばかり。由紀夫君の回想するエピソードから、四人の個性的な父親との生活ぶりが浮かび上がって来ますが、これに中学の同級生の鱒二君や賭博の黒幕の富田林さんや、不登校の小宮山君などが登場してお話は進んでいきます。赤と白の県知事選挙戦を背景に、何やら事件が起こっていそうな雰囲気で、不用意にごたごたに首を突っ込むものだから、とんだ監禁状態に陥ってしまいます。この救出作戦が、いかにも伊坂ワールドな展開(^o^)/
おもしろいです。



物語の終わりの方で、由紀夫が突然に四人の父親のうちの誰かが亡くなり、葬儀に立ち会うような場面をイメージします。父親たちの表情には少しずつ老いが刻まれ、一人ずつこの世を去っていく。由紀夫くんならずとも「寂しさは四倍か」と呟きたくなります。叔父さん、叔母さんたちが多いほど、葬儀の回数も多くなり、寂しさも多くなるように。

こういう感覚は、高校生時代には、たぶん、ないと思います。



たしか、風邪をひいて寝込んだときに読みかけて放置してしまっていたのでしたが、半年ぶりに最後まで読み通し、面白さをあらためて認識しました。

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