志情(しなさき)の海へ

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魂の響き合いーーアイルランドと沖縄

2010-09-26 07:37:42 | 沖縄文化研究

日本イェイツ協会の第46回大会が琉球大学で開催されている。2010年、9月25日から26日!
恩師の米須興文先生が講演されるので、25日朝、聴講した。すでに先生は、ご本の中でも沖縄の新聞紙上でもアイルランドと沖縄の関係性について多くの論稿やエッセイを書かれておられる。沖縄の文化思想や文学思潮への影響も大きく、(それは大城立裕氏との子弟関係も含め)学生時代にシェイクスピアや近代詩の授業を受けたワタシなども、アイルランドに深い憧憬の念を抱かせ、直に当地に行くことにもなった。ただ米須先生の沖縄の詩(人)に関する言及には偏りがあり、(あまり読まれていないことがわかる)その点では、日本でアメリカの詩人・スナイダー研究の第一人者・山里勝己さんの視点・視野・見識の方を評価したい。

(ただ、小説に関する文芸賞の選考や批評は、仲程昌徳さんや新城郁夫さんのように実際日本や沖縄の近・現代文学研究書や論稿を多く出されているお二人の感性を尊重している。欧米文学研究者は米須先生もそうだが、あくまで基軸はインサイドではなくアウトサイドの研究者である。それは世界的に著名な日本の演出家鈴木忠志や蜷川幸雄の演出する作品がシェイクスピアやギリシャ演劇作品を基軸にしながら日本の伝統演劇の手法や型やイメージを採り入れていることにも関連するインターカルチュラルな試み、にも似ているように見える。インサイドの研究者を大事にする事と、かつアウトサイドの視点をどう組み入れるかのせめぎあいがあるが、両方の視点なり視野が必要なのだろう!問題は、どなたがより明晰な分析と統合のセンスでこの地域の文化に光を当てることができるか、ということなのだろうが、批評する側の思想も感性も常にまた批評に晒されている、ということに尽きようか?)

前置きはそれぐらいにして、講演の中身はとても刺激的で問題をまた提起されていた。疑問も起こった。80歳手前の恩師がこの間の世界的に認知されたご研究と文学批評の過程や大学での教育を通して、この時点で、どんなことば(言説)を残されるのだろうか?と関心をもって会場に駆けつけた。アイルランドと琉球/沖縄の歴史的経緯、政治的桎梏をお話され、植民地体験や自然の大災害や戦争などの大人災の違いなど、また言語とアイデンティティーの関係など、共通する自然へのやさしい眼差しと共存、アイルランド民謡と琉球民謡の類似とハーモニーなど、非常に興味深かった。特に母語の衰退と民族のアイデンティティーの危機意識との関係で、詩人イェイツがゲール語ではなく、英語を利用してアイルランドの民族精神を表現する立場で立ち向かったことなど、琉球・沖縄語ではなく日本語で沖縄の作家が物語を表現し現に4人の芥川賞作家が沖縄から誕生している事柄など、類似点と相違が明らかになっていった。ただウチナーグチももちろん沖縄の作家は果敢に表現に取り入れているのは最近の傾向である。米須先生が目取真俊のことに言及するのをはじめて聴いた。沖縄ならではの表現に拘る作家のことばを引用したのである。

琉球処分以降に沖縄が自発的に琉球語から標準日本語を半世紀で習得し、日本(人)の生活パターンを選んだとの発言には、解説された風呂本武敏氏のご指摘に共感を持った。国家権力によらず琉球人が自発的に選んだとの明示は何を意味するのかと気になっていた。両方の側面は方言札に関する論文や書物からも明らかで、そうなるとサバイバルの志向の中で少数民族が大きな民族に国家に吸収されることになる。その辺に関してはもっと詳細に書きこみたいと思うが、それは論考としてまとめてみたい。米須先生は常に二元論的発想のフレームを持ってこられる。今回はinsider/ outsiderである。

(いろいいろとまた追記していたが、書き込んだのがまた消えた!ああいやになる?!ブログを辞めたくなる瞬間!いったいこんなブログは意味があるのだろうか?PVがたかが170に意味があるのだろうか?)ネットのグラス・ルーツを信じたいがーー?!

<写真:山羊小屋と懐かしい草花、多良間島、この白い花の名前が思いだせない!>


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