(マーラン船、何となく夢が膨らんでいくようです!)
ハイスさんが足繁く沖永良部島に足を運んだ記述式文法の試みは、結論がないと、考古学の池田先生が噛み付いて論議沸騰した。どなたもやっていない試みである。書き言葉がまずないところで自ら嶋の年配(高齢)の方々に言葉をかけ、彼らの話物語の中から文法構造を拾い出していった記述そのものの価値が認められていいのだと、狩俣先生である。結論ありきが論文ではない、という言説があったのだ。興味深かった。
和花先生は堂々と各章をきちんと発表して、質問も的確に答えた。単純にその切れ味の良い応答が凄いと思った。やったね!論としてきちんと構成され納得させているか、基軸理論の正当性など、なるほどだが、母親の役割とアイデンティティー、言説=対象物に付与された意味、ディスコース=言語行為、実践、それがアイデンティティーになると、明快な答え方である。
社会的構築主義の捉え方の背後にある権力についての質問にもやんわり答えた。んんいいね。
PCに向かって孤独な闘い、クラシック音楽が友達の日々!昨日のプレゼンの授業で学生がサンシンについて英語で語り、直に「アサドヤユンタ」を弾いたのでびっくりした。動画でアメリカ人の「ヒシ節」も聴いた。宿の女のイメージが「ヒシ節」に伴ってビジョンが浮かんだ。悲哀感が研ぎ澄まされていくような気がする琉球古典音楽の味わいに一瞬ハットさせられた。
仲村善信先生によると、声そのものからすべてが透けて見えるのだという。古典音楽の根にある首里、那覇ことばは深いものがありそうだ。根の大事さ。