沖縄のシンボル、沖縄の誇り、沖縄人のアイデンティティの象徴としての首里城のイメージが膨らみつづけていて、はじけてしまわないかと妙な不安も起こります。明るいボランティアの寄付や献金活動が紙面を飾り、こんなにこの社会はお金が流通し、慈善活動への心配りが大きいことに驚きます。寄付が後を絶ちません。「かねひで」が3年間で1億円です。ユネスコも関与を表明しています。
確かに1879年から140年と、それほど長い年月ではないのかもしれませんね。しかし、時空の長さ、短さではかれない歴史にも思え、ついこの間まで小さな王国は清と薩摩の二重支配を受けていたことが頭をよぎります。そして地上戦の悲劇に至る近代の66年間が続いたのです。そして戦後74年の方が長くなりました。戦後の出立の時点でお城の地下に急ごしらえで設営された第32軍司令部壕後も問題になっています。歴史の痕跡をしっかり残そうとする意向も根の部分で歴史の記憶が現在に至る強固な糧になっていることを、ストレートに伝えてきます。
首里城と所蔵品は王国文化を発信してきた琉球(諸島)の特別なお宝(歴史の証人、知の集積)として圧倒する力を見せています。その物理的な城を再建するための幅広いネットワーク(運動)が始まって一月ほどですが、紙面は首里城再建の様々な動向を伝え、また人々の思いが表に開示され、再建に向けたトークショーやシンポジウムなども盛んになされてきています。
1879年前後のいわゆる琉球処分、そして繰り返されてきた第二、第三、第四の琉球処分と、かの沖縄の顔を表象(代表)する作家の大城立裕さんの定義ですが、それは違和感なく身にしみて感じられる皮膚感覚のようなものです。琉球処分の4文字の定義への新たな歴史の解釈も登場しているが、『琉球処分』のことばは一人歩きしているようです。
自らの足下を掘ることになる「炎に呑みこまれた首里城正殿、北殿、そして南殿などの漆の朱の色に塗られた建物」は朱の色があでやかで、どこか戯画的な雰囲気もあり、何度もお城に行くということはなかったのですが、遠くから特に龍潭池の当たりから見上げる城が当たり前の光景になっていたゆえに、炎に包まれ、焼け崩れる城の映像が信じられないしかしリアルな姿だったのです。
琉球史や琉球王国時代の文化財に詳しい方々(専門家や研究者)の顔が紙面に並んでいます。文化とは何か、ことに琉球…沖縄の文化についての掘り下げが脱構築のように取り組まれていく様相はいいのですが、復古調のローカル主義、自立主義、自決権、独立の要求にも至る政治運動に拡大しそうな気配もありますね。
ネットで以下の論考が公開されていました。
https://ironna.jp/article/13856 首里城の復興に沖縄メディアがしのばせた「奪還の計」
『仲村覚』 2019/12/02←沖縄が中国の植民地になると憂慮している方ですね。日本の中の沖縄を推進する考えでしょうか。
一方でユーチューバーの多嘉山さんは「琉球独立は現実的選択」になると書いています。
(琉球新報:12月3日)
ほか首里城再建に関するソフトの面での識者オピニオンの一つが以下の記事です。
(沖縄タイムス、11月30日、豊見山先生は信頼できる琉球史研究者ですね。宮古島出身の氏の先祖は琉球王府から派遣された役人、士族だったのでしょうか?八重山、宮古島の方々の中でも先祖が琉球士族の子孫と一般庶民・百姓出身者と違いがあるのでしょうか?農奴のような身分だった方々と役人の子孫との間の差異も研究されているかと思いますがー。)
上記の談話のまとめの文章に、王国時代の支配が①薩摩②王府③地方役人の三層構造と紹介されていますね。特に先島の場合、王府の役人が在番として何十人も部下を引き連れて島のお目付と税の収奪のために送られていますね。しかし、薩摩の琉球の富の収奪はすごいです。その下で役人階層が一般庶民(王府時代の百姓)を苦しめてきたのですね。民衆史がどう記録されているだろうか、気になってきました。