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まだ念頭には真喜志康忠、北島角子、八木政男、間 好子さんたちの舞台の記憶が残っている。それゆえに比較してみている冷めた目があったのは確かだ。若い!ウさ小は若い!踊りもうまい!それでいて水のような軽やかさをもった人物である。水のような個性である。一方でヤードゥイの前栄城家、侍の気位の高い家の娘マズル(伊良波さゆき)は現実感覚(時勢の流れ)の持ち主である。地頭代の家(大門家)の地頭大門の主(玉城盛義)は前は真喜志康忠の十八番だった。盛義さんは身長が高く、丸みがあまりないので、奥間家の親方(嘉数道彦)と入れ替わった方が良かったかな?と一瞬思った。大門の主のメイクが百姓のメイクで大柄な身体がちょっと固く感じられたのが惜しかった。次第に流れにそって笑を引き起こしていた。次のキャスティングの時はお二人を交代したら面白いかもしれない。それで奥間親方が舞台で抜きんでて見えた。
つまり騙される役大門の主は、モリエールの喜劇の主人公的な信じやすい愚かな真面目さを演じているのだが、ちょっと三枚目的演技が玉城流家元には厳しいかな?などと思ったのだ。「嵐花」の朝薫なら風格があって似合っていたのだが、三枚目はなぜか合わないなー。(本音)
嘉数さんはその点、三枚目が似合うのである。もちろん首里の親方のだましの演技は面白く、嘉数さんがすべてを食ってしまう面白さだった。宇座仁一の筑登之は実にはまり役で、気位の高い母親カナ(小嶺和佳子)も良かった。演技の細かいところで縫い物をしながらも着物をはたきながら大門の主を追い払う所作など、なかなかである。娘マズル(伊良波さゆき)もぴったりで気品のある士族の娘のイメージだった。彼女の良さが出た。現実感覚にたけた娘のイメージだ。一方モテモテの大門の長男亀寿役金城真次だが、どうもわたしにはそのメイクが馴染めない。いかにも歌舞伎の侍役者のような眉の描き方に違和感がある。『染屋の恋唄』の時もその眉の描き方である。それはどう見ても百姓の姿には見えない。「女形」を見たい。
真喜志康忠さんが戦前よくお話ししていたことばに「ほんとらしさ」がある。フランスの古典演劇の概念でもでてくるヴェリシミリテュドゥである。「らしさ」がないと興ざめする。それと金城さんは身長が高くはないので、下男役などは似合っているが、また「女形」の芸ができる「うりざね顔」をもっている。「女形」の金城真次を見たい。歌もうまい。高い声音で歌えると思う。次回は女形を見せてほしい。分ジュリでも美しいと思う。
奥間家の「んーめー」役・中曽根律子さんは品のある愛らしい祖母の姿だった。間さんより愛らしく美らかーぎーに見えた。拍手!
ユタハーメーの阿嘉修さんは抑えているような演技だった。もっとはじけていいのでは?などと思った。羽目をはずさない演出だったのかもしれないが、面白さに欠けた。
探訪人謝花の天願雄一さんはうまくこなしたが、男の色気がほしい。玉木伸さんが演じていた役だが、玉木さんは役者として、色艶のある方だ。色艶ということばをよく使うのだが、80歳にして真喜志康忠さんには色艶があった。いい役者には艶がある。それは色気そのものではなく役者の内面からあふれ出る何か(存在感)だと思う。樽金役の佐辺良和は美男の里之子だったね。美男ゆえに樽金役はすこし不釣り合いに見えた。どこか間抜けな雰囲気のある賢くない士族の若者のイメージから遠いような扮装である。ステレオタイプのイメージからの「ずれが出せるかどうか」が問われよう。
新しいタイムスホールは沖縄芝居の身の丈にあったホール(劇場)だね。演出は幸喜さんの特徴としてどんどん変化する。今回面白いと思ったのは対称性が鮮やかに写しだされた、ということである。ウサ小とマズルの対決シーンの踊りの競舞はカチャーシー踊りと古典踊りの対決にした。ただマズルが侍の娘で踊ったかどうかは怪しいが、士族の娘として村で育った母などはまったく戦前芸事から疎外されていたからだ。
今回舞台に立った沖縄芝居実験劇場の面々はとにかくモテモテである。彼らが沖縄芸能(演劇)の今を率先していると言い切ってもいい。忙しいゆえに芸に集中できたかどうかは問われよう。セリフがまだこなれていないままに本番に立った姿も感じられた。そこは問題!舞台は全体のハーモニーが問われる。オーケストラゆえに一人でもセリフに安定感のない者がいると全体が失態に思えてもくる。流れが悪くなる。イメージも悪くなる。芝居を何十年もやった役者の臨機応変ができない粗さが目立ってくる。観客は見逃さない。聞き逃さない。全体のイメージの高揚のためにも一人の失態は許されないのである。高いお金を払ってみるのである。お金を返してと言いたくなる舞台ではないことを念じる。
メスプレイが飛ぶ沖縄の現実がいきなり最終場面にやってくる。それは演出のメッセージだ。世替わりの琉球処分から今年で134年目である。オスプレイが飛び、沖縄の空は暴音に包まれている。ここからどこへ向かうのか?新しい舞台の創造が君たちに問われている!
それから、パンフだがミスがある。出版物の編集にはかなり全体を透徹できる知性が必要だ。もっと緻密なパンフレットを作成してほしい、と思った。脱清人謝花?駄目よ、それではー。もっと丁寧に作品を読んでほしい。
作品論としては、すでに「演劇に見る琉球処分」の題で「首里城明渡しと世替りや世替りや」について比較して書いたのがネットで読めると思う。