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「八月十五夜の茶屋」との関係で読んだが、以前「沖縄の蝶々夫人」の題で研究発表したことがあり、蝶々夫人のオペラから「ミス・サイゴン」のDVDやCDまで観たり聞いたりしたのだが、この間ずっと念頭にあるテーマなのだと納得する。さてどう着地点を求めるか問われているのだが、「蝶々夫人」の系譜は実は『八月十五夜の茶屋』の中にも包含されていると納得させる。小川さくえさんのこの本は読みやすく、概説的で取り上げた作品について、まさにオリエンタリズムとジェンダーのあり方が手に取るようにわかる。「M・バタフライ」まで取り上げている。取り上げざるをえないのだろう。蝶々夫人の従来のステレオタイプの視点が覆されている。西洋と東洋の関係性の襞が、一つの作品の系譜の中で切開されていく。引用できるところを今から抜き出そう。
オペラの蝶々さんの自害が愛する者への自己犠牲ではなく、彼女自身の観念的な美的幻想にささげられた狂気の死ではなかったのか、の問はまた新しい視点かもしれない。自殺論としては幻想への自己陶酔ということで新しい説でもないのだろうが、蝶々夫人そのものが実体のない幻想だ、という指摘もなるほどである。
バウル・ヴェン『バタフライ』はまだ読んでいない。奇天烈な展開に見える。宿命の女ではなかった蝶々夫人ですか。そのセクシュアリティーの描写は興味深い作品である。つまりケイトというアメリカ人、ピンカートンの妻が元売春婦で云々の展開など、男女の関係性の綾を追い詰めている小説なのらしい。ミカドの命令で切腹した侍の娘であり結婚する前は芸者だった蝶々夫人に付与されたイメージが日本的な美として表象される。エキゾチックな魅力、小さく華奢な身体、夫への貞節、死を決意する潔さなどなど、オペラのアリアは美しい悲壮感で心を虜にする。
物語性とは別に歌唱の、メロディーの、音楽の悲劇的神髄が生死・宿命・愛・刹那の美を奏でる。音楽劇の美という場合また別の物語も出てくるのだろう。情感が高まるのはなぜか?パタン化された悲劇の要因は確かに西洋的なものだね。