
来る11月27日、28日に「国立劇場おきなわ」で女性だけの『執心鐘入』と折口信夫の『執心鐘入縁起』が上演される。すでに田中英樹が【華風】11月号に「愛しきかな、組踊」を書いている。組踊誕生の秘話として、どうも折口信夫が愛人で後に養子とした藤井春洋への思いを重ねて創作したのが、「執心鐘入縁起」である。
不思議なのは、田中が引用しているのだが、「見わたす限りの焼石原。緑の木もない赤土山」「ただこれだけの琉球へ、なぜ還って住まねばならぬでせう」という譜久村里之子の台詞だ。当時1700年代初頭の琉球が焼石原でありえない設定は、まさに折口が流黄島で戦死した愛人(養子)を慮って書いた作品だと云う事がわかる。その点は田中も解説的エッセイで紹介している。しかし田中は折口が同性愛者で春洋が愛人だとは説明しない。片手落ちである。
一見して「執心鐘入縁起」は琉球の若い士族(楽童子)が大和の美しい文化、そして大和の姫に恋し、その恋に殉死するかのように海に入っていき自死する物語である。そして玉城朝薫はその思いを汲んで琉球ならではの芸術作品を創作する決意をするという物語である。
時は徳川家第六代将軍家宜のお世継ぎの祝いと尚益王即位の報告を兼ねた江戸登り一行が、海路・陸路の長い旅をへて薩摩から琉球に戻る舟の上で物語は展開する。そして作品を読めば読むほど、折口の大和文化に憧れる琉球士族の心情風景を強調していることが分かる。その作品の中身、テキストと舞台についてはいずれやってみたいが、今回、書きたいと思ったのは、今朝の琉球新報文化欄で沖縄国際大学教授の狩俣恵一が書いた舞台への誘いの文章である。「執心鐘入縁起」上演によせて、である。
狩俣が原理主義的思考の持ち主だということが分かる。しかしその原理主義なり本質論も中身は問題含みだと考える。昨年組踊研究の先達者について沖縄芸能史研究大会で講演した中身にもそれは窺えたが、氏の論の展開に肯定できる所と否定したいところが起こった。
このブログで詳細は展開できないが、さてこの誘いの文章で気になったところが、「折口は女踊りにしても、女性の参加にたよることなく発達して来ただけに、その良さ、すべて男性的な点にある。女性が琉球踊りに不適切なことは、尾類の踊りを見ても分かる」と述べていて、それは大和の女型と沖縄の女型の相違を指摘して卓見である、とする。その辺への疑問が一つ。県立芸大の板谷徹先生が女踊りについて研究した事例に即しても、明治・近代以降の女踊りに関しても王府時代にしても辻遊郭を絡めた女たちの感性が女踊りの中に加味されていない、との実証はない。
私見では古典女踊も「花風」が登場してから変質したのである。王府時代の女踊と近代以降とではその踊りに質的変換が起こったと見ている。折口は辻で尾類の女たちの舞踊を鑑賞している。渡嘉敷守良にほれ込んで歌まで詠んでいる。実際明治・大正・昭和初期の「琉球の女踊り」の展開がどうだったのか、同性愛者で女より男に美を求め愛した折口の感性を絶対視する危険性がそこに付きまとう。
「また血縁関係にあるヤマト芸能の比較研究もほとんど進展していない中で新しい組踊を行うようになってきた」の批判も生モノで常に新しい創作をせざるをえない舞台の特性をよくわかっておられない方のご発言である。「あら、おかし」である。
さらに「観客数の増加を至上命題として、大衆芸能の沖縄芝居的な新作組踊上演を繰り返し行い組踊役者もそれに追随してきた」も時代錯誤的批判である。「組踊」の概念もゆらいできた、ともおっしゃる。どう歪んでいるのか?大議論をする必要があるようだ!
明治以降の芝居の世界で延命してきた「組踊」であり、芝居役者が組踊を演じてきた歴史をも否定するような発言である。氏の理想とする組踊はどんな組踊なんだろう?
<写真は人気のある女性だけの劇団「うない」のロビーでの様子2010年10月>
不思議なのは、田中が引用しているのだが、「見わたす限りの焼石原。緑の木もない赤土山」「ただこれだけの琉球へ、なぜ還って住まねばならぬでせう」という譜久村里之子の台詞だ。当時1700年代初頭の琉球が焼石原でありえない設定は、まさに折口が流黄島で戦死した愛人(養子)を慮って書いた作品だと云う事がわかる。その点は田中も解説的エッセイで紹介している。しかし田中は折口が同性愛者で春洋が愛人だとは説明しない。片手落ちである。
一見して「執心鐘入縁起」は琉球の若い士族(楽童子)が大和の美しい文化、そして大和の姫に恋し、その恋に殉死するかのように海に入っていき自死する物語である。そして玉城朝薫はその思いを汲んで琉球ならではの芸術作品を創作する決意をするという物語である。
時は徳川家第六代将軍家宜のお世継ぎの祝いと尚益王即位の報告を兼ねた江戸登り一行が、海路・陸路の長い旅をへて薩摩から琉球に戻る舟の上で物語は展開する。そして作品を読めば読むほど、折口の大和文化に憧れる琉球士族の心情風景を強調していることが分かる。その作品の中身、テキストと舞台についてはいずれやってみたいが、今回、書きたいと思ったのは、今朝の琉球新報文化欄で沖縄国際大学教授の狩俣恵一が書いた舞台への誘いの文章である。「執心鐘入縁起」上演によせて、である。
狩俣が原理主義的思考の持ち主だということが分かる。しかしその原理主義なり本質論も中身は問題含みだと考える。昨年組踊研究の先達者について沖縄芸能史研究大会で講演した中身にもそれは窺えたが、氏の論の展開に肯定できる所と否定したいところが起こった。
このブログで詳細は展開できないが、さてこの誘いの文章で気になったところが、「折口は女踊りにしても、女性の参加にたよることなく発達して来ただけに、その良さ、すべて男性的な点にある。女性が琉球踊りに不適切なことは、尾類の踊りを見ても分かる」と述べていて、それは大和の女型と沖縄の女型の相違を指摘して卓見である、とする。その辺への疑問が一つ。県立芸大の板谷徹先生が女踊りについて研究した事例に即しても、明治・近代以降の女踊りに関しても王府時代にしても辻遊郭を絡めた女たちの感性が女踊りの中に加味されていない、との実証はない。
私見では古典女踊も「花風」が登場してから変質したのである。王府時代の女踊と近代以降とではその踊りに質的変換が起こったと見ている。折口は辻で尾類の女たちの舞踊を鑑賞している。渡嘉敷守良にほれ込んで歌まで詠んでいる。実際明治・大正・昭和初期の「琉球の女踊り」の展開がどうだったのか、同性愛者で女より男に美を求め愛した折口の感性を絶対視する危険性がそこに付きまとう。
「また血縁関係にあるヤマト芸能の比較研究もほとんど進展していない中で新しい組踊を行うようになってきた」の批判も生モノで常に新しい創作をせざるをえない舞台の特性をよくわかっておられない方のご発言である。「あら、おかし」である。
さらに「観客数の増加を至上命題として、大衆芸能の沖縄芝居的な新作組踊上演を繰り返し行い組踊役者もそれに追随してきた」も時代錯誤的批判である。「組踊」の概念もゆらいできた、ともおっしゃる。どう歪んでいるのか?大議論をする必要があるようだ!
明治以降の芝居の世界で延命してきた「組踊」であり、芝居役者が組踊を演じてきた歴史をも否定するような発言である。氏の理想とする組踊はどんな組踊なんだろう?
<写真は人気のある女性だけの劇団「うない」のロビーでの様子2010年10月>