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民家のような佇まいの能楽堂、200人ほどが集ったのだろうか?シェイクスピアの
『オセロ』の死後の世界がお能の世界で再現される。そのNarrativeは欧米でもアジアでも一つの新しい創作として受け入れられるだろう。これは新作『オセロ』である。
中身について、ちょっと夜に少し印象批評を書いてみたい。シェイクスピアの『オセロー』を土台にして、殺されたデズデモーナ、言葉「イアゴーの企て」に騙され妻を殺し、自らも自害したオセロ、そして二人を破滅に導いたイアゴーが登場する。白い花のシンボリズムはかつてオセローとデズデモーナの愛が純粋に結実したその極めついた先にあった真善美の象徴と見ていいのだろう。愛の象徴。それが枯れて飛び散ってしまう。二人のかつてあった愛が1年に一日、一度だけ咲きほころぶ。その白い花が永遠のすでにつかめない愛として描かれる。
登場するのは花守・オセロの霊〈シテ)、デズデモーナの霊〈シテ)、吟遊詩人(ワキ)、イアーゴの霊(アイ狂言)の4人である。吟遊詩人は能の構造からワキとして泉 紀子さんが創作した人物である。この新作能の脚本・詞章は泉さん、演出・節付・主演は辰巳満次郎さんである。吟遊詩人の登場のさせ方は普通僧侶と見間違うような存在か。お能の規範(舞台上の約束事)を継承した構図になっている。吟遊詩人がキプロスの荒れた廃墟の庭を訪ねると、庭園には月光に照らされて輝き、馥郁とした香の白い花が一面に咲いていた。あまりの美しさに花を一枝折ろうとすると、花守(オセロの霊)が登場する。しかし舞台のはじまりはイアゴーの霊の登場である。ハンカチではなくここでは扇でオセロへの恨みを果たしたイアゴーが企みがうまくいったことを観衆に向かって吐露するのである。
「人のうわべしか見ぬアホの心に、毒よ廻って燃え上がれ、毒よ廻って燃え上がれ」と挑発的な物言いをした後に退場する。死後もイアゴーの霊はオセロとデズデモーナについて廻るということになる。イアゴーの存在なくしてありえなかった悲劇だからというのがテキストの上での物語(約束)だがー。愛と嫉妬、憎しみ、すでに社会の規範を越えた愛が規範を越えたデズデモーナの無邪気な無垢な愛ゆえに、不安と犠牲が伴っていたともいえるカップルの誕生である。
彼女は15歳から18歳ころの年齢でオセロの武勇談に感銘を受けその人生と人物そのものに恋した少女である。作品はイアゴーの企みによって嫉妬の炎を掻き立てられていくオセロと、ドメスティックな暴力に類似して、偽りの事象を真に受けて愛しているはずの妻の愛を疑い、執拗に攻めていく男のエゴーの醜さが描かれていく。その男の仕打ちを許す無邪気な無垢な純粋な愛をもつ少女という構図だが、泉プロジェクトもその意味で観音菩薩のような慈母の愛の持ち主としての死後のデズデモーナである。
自らを殺したオセローへの愛を捨てがたくもっているという設定である。愛と死、諸刃の刃のように際立った男と女の愛、その究極に二人が上り詰めた愛=真実の白い花として想定した死後の物語である。オセロは自らの行為を許せない自己処罰の罪意識に囚われている。ゆえに許しや愛を乞うでも許されない自縛と罪(殺人)ゆえに地獄をさ迷っている。デズデモーナはオセロを見捨てることができない愛ゆえに、天国へといけないままに中有にとどまり続けている。武勇の名誉も誇りも捨て去った男の悲劇というのは単純だろうか?感情の波におされるままに愛と憎しみ、嫉妬の業火に身を投げたのである。愛=全実存だったがゆえに、殺し自殺したとも言える。愛の裏切りは総てを消失させたのである。裏切りと思い込んだ愛とは何だろう。当初からデズデモーナの愛を信じることができなかったオセロだったともいえる。愛の裏切り=屈辱は武勇の誉れも総てを消しさってしまうほどのものだったということになる。
これが純粋の愛と言えるのだろか?白い花の幻想=真善美=純粋なる永遠の愛とはいえないのではないか、という疑問も浮かぶ。ムーア人の武勇の誉れの高い将軍とベネチアの貴族の娘(少女)の一瞬に燃え上がった愛=結婚、情熱の炎の結実は早く、人生の荒波に耐えてきたはずのオセロが一途に美しい少女の愛を心底信じていなかったということでもある。敬愛すべき誉れ高い夫は自らの愛を疑い虐待する男に身を豹変させた、その落差、絶望の中で、デズデモーナのさ迷う魂はDVで虐待される恋人や妻達の姿に重なる。それでも、自らを殺した男を愛し、いたわり、受容せんとする魂の在り処に嘘はないのだろうか?虚構を生きざるを得ない人間の性の悲しさであり陥穽であり、その関係の絶対性を逃れられないような淵に落とし籠められる人間の弱さとも云えようか。
すれちがう霊になったオセロとデズデモーナは永遠に触れ合う事〈抱きあうこと〉はありえない。魂の彷徨を生きざるをえない。交わることのない対の関係を永遠に生きるのである。許しあえない男女の関係性の淵、かつて愛し、愛し合った二人〈白い花の庭〉が地獄の淵に引き裂かれていく。その愛が真実だったら、愛がひたすら相手の幸福を願うものだったら、ありえなかった地獄(悲劇)である。一途な愛を裏切られたのはデズデモーナであり、それを断ち切ったのがオセロだった。
ジェンダーの視点(?)でみるとやはり許せない男であり、その男を慈母の心で許そうとするデズデモーナは虚構の愛を信じた自らの曇った目線や感性を立ち止まって見据えなければならない、と思えるのだがー。男を見誤ったのである。オセロの武勇伝、物語=虚構と実在する生身の感性や理性との差異、落差がそこにあった。断ち切れない恋情なり形の規範への追随は、すべて人間の属性ゆえの弱さととっていいのだろうか?ことばで簡単に騙されことばで簡単に有頂天になる人の属性でありえる。完璧なる存在はありえず、多かれ少なかれの傷や欠陥、死という切符を持ちながら期限付きの生を生きざるを得ない人間という属性のなせるドラマの一つともいえるのだろうか?
ムーア人(黒いアフリカ人)の将軍とベネチアの貴族の白人娘の対比、弁証法の相対する違いが破局を孕んでいたゆえに、結果としての悲劇は宿命として包摂され、物語は自然に流れたという解釈も成り立つ。つまりイアゴー的な策略家がいなくても悲劇は予測できたとも言える。しかし作品の中ではイアゴーの位置は策士(悪の権現)として大きな位置を占める。世間〈社会〉には多くのイアゴーが存在するのだと、この新作能も属性として強調している。例外はオセロでありデズデモーナである。(ただ思いつくままに。備忘録)
パンフの一部を紹介しておきます。このプロジェクトはさらに英語や中国語に翻訳されて世界への発信が予定されているようです。