http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%AB%E3%83%89_(%E3%82%AA%E3%83%9A%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%BF)⇔ミカド(オペレッタ)
西洋が見た東洋のカリカチュアだが、ジャポニスム、オリエンタリズム的視点だけではない何かがそこにありつづけるのだろうか。東洋のミカドとその皇太子や貴族などのラブストーリーと極端な単純さ、分かりやすい物語の筋の展開はステレオタイプにも感じられるが、(類型化)、実は西欧自らが求めた物語パターンであり、舞台のハイブリッドなありようは、視覚に聴覚に独特な彩を与え続ける。喜歌劇である。ミカドは日本を支配している一番偉い人、彼の好き嫌いがそのまま法律である。ナンキ・プー=流しの旅芸人に変装している皇太子。などなど、「蝶々夫人」とは異なる西欧が受容し咀嚼しイメージ化した総合美が溢れ、東洋(日本・中国)の幻想があふれる舞台。第三の眼が捉える日本、物語は西欧の物語そのものだね。『ミカド』の空間→『八月十五夜の茶屋』に連なるperformativityがあると言えようか。
≪猪瀬直樹≫1987年、西武グループと堤義明について皇族との関係を絡めながら書した『ミカドの肖像』で、第18回大宅壮一ノンフィクション賞、ジャポニスム学会特別賞受賞。本書は「世界史のなかで天皇制を考える」をテーマに、「なぜ、西武グループが皇族の土地にプリンスホテルを建てたか?」「なぜ、オペレッタ『ミカド』が欧米人から喝采を浴びるのか?」「なぜ、明治天皇の『御真影』は西洋人の風貌になったのか?」という3つの謎を主軸に展開する。