福永さんの素敵な奥さんからお電話をいただいた。また見に来てくださいと。それで1週間の最後の日に見に行きたいと、答えた。行けたらいいのだがーー。すべて形が整ったら演劇は面白みがなくなる。カオスの面白さを追求してほしいと思うゆえに、彼らを応援しているが、初演の時は、フィリピンの演出家や元黒テントの雅子さんもご一緒だったのでじっくり見ていなかったので、概要がうまくつかめなかったのはその通りである。
半分うつらうつらしていた。SORRY!しかしである。今日大学のCall教室で働いている可愛いMさんと話したら、とても面白かったと言った。彼女のボーイフレンドは2回見たそうである。彼女によると復帰子世代の感性なり背景がわかって面白かったという。また演劇の中の映画の話なども、ああこういうのが受けたのか、と音楽もダンスも結構いけた、という。おばさん感覚ではちょっとね。話を聞くとオレオレ詐欺のシナリオを持って逃げた男がいてそれを海に捨てたのでヤクザに追われていた、とか、新しいセンスがそこに溢れていたのである。なぜかよく見えなかったパクさんの世界、福永が伝えようとした東京と沖縄の綾を見てみたい。
ということで、これは小さな劇場を応援したいための広報です!Mさんには感想でもいい、批評でもいい、送ってくれたらそれをあなたの名前でブログで紹介したいとお願いしたら送ってくれると、言う。それでお楽しみにして待つつもりでいる。
後で彼女の若いセンスで編み出されたことばを紹介しますね。
まだ見ていない方はぜひ『コヨーテ・ピストル』の舞台を見てくださいね!少なくとも演劇にまだパワーを感じる皆さんは見てほしいです!29日までです。写真などUPしたいが撮り忘れていた。劇場の周辺は撮ったかな?後でUPしますね。
「さよなら人類館」が気になっている。そこで1週間でもできるかな?福永が老女で?などと妄想している。毎週金曜日に何かが上演されるとか、毎週土曜日は太宰の一人芝居がやられるとか、でもいいね。小さな劇場の活性化をいっしょに考えたい。小さな街の隙間から何かが始まる気配がしている、と肯定的に見たい。暗いので暗さの中で明るい可能性を見たい。街の決壊から何かが見えてくるようなレンブラントのあの闇の中の光にも似たものに救いを求めたいような気持ちのようなものーー。
Mさんとは最近の若者の演劇について少し話した。というか私は聞き役で彼女のことばに耳を傾けた。先週行こうかどうか、結局論文をまとめるための言い訳で行かなかった「豚子と呼ばれて殺された女の子」の演劇、ヒューマンステージのことなど、興味をもった。パンダとか、ネーミングで拒絶感が起こっていたのは事実だ。さみしさゆえに一夜のSEXに明け暮れていたように見えた豚子について4人の男女が語り合う舞台だが、彼らの生々しい台詞が良かったという。中学生時代にレイプのような悪夢を体験した女の子が逆にSEXは楽しいもの、快楽だと割り切って生きていったその後のストーリーで、刹那的な愛(SEX)だが実は深い絆を求め続けた女の子の事が語られたという。女の子が身体を武器に男に頼るその感性のありようについてMさんは話していて、女の子の本音が語られていて良かったという。となると、見なかったことが悔やまれる。また再演してほしい。いいSEXといい結婚とは必ずしも一致しないし、奔放な性を生きた豚子は幸せだったのかもしれないーー?なぜ豚子だったのか、誰とも寝る女だから豚子だったのか?SEXのモメントだけに生きる喜びと希望があったのかもしれないーー?やはり舞台を見たかったけれども、彼女は若者たちの今が切り取られていると話した。それがとても印象に残っている。しかしなぜの部分は曖昧だったという。つまりなぜ豚子がそのような生き方をしたのか、の部分は避けていたということである。しかし、彼女のことばの中で想像できる事柄が浮かんではきた。---なぜ皆が彼女を語るのか?その辺に現在のすさびなり孤独なり虚無が滲んでいるーー。
まだまだ女性が自らのセクシュアリティを語れる空間は狭いと言える。すでに欲望が矯正されている社会の規範があり、その隙間のカオス、混沌の中に可能性なり真象があるのかどうか?豊かなセクシュアリティをどう生きて死んでいくか?今頃『セクシュアリティ』や『フェミニズム文学批評』を論文を書くために目を通している。上野千鶴子のセクシュアリティの定義は「性をめぐる観念と欲望の集合』である。これを今まとめている論文の定義にも使う事にした。
半分うつらうつらしていた。SORRY!しかしである。今日大学のCall教室で働いている可愛いMさんと話したら、とても面白かったと言った。彼女のボーイフレンドは2回見たそうである。彼女によると復帰子世代の感性なり背景がわかって面白かったという。また演劇の中の映画の話なども、ああこういうのが受けたのか、と音楽もダンスも結構いけた、という。おばさん感覚ではちょっとね。話を聞くとオレオレ詐欺のシナリオを持って逃げた男がいてそれを海に捨てたのでヤクザに追われていた、とか、新しいセンスがそこに溢れていたのである。なぜかよく見えなかったパクさんの世界、福永が伝えようとした東京と沖縄の綾を見てみたい。
ということで、これは小さな劇場を応援したいための広報です!Mさんには感想でもいい、批評でもいい、送ってくれたらそれをあなたの名前でブログで紹介したいとお願いしたら送ってくれると、言う。それでお楽しみにして待つつもりでいる。
後で彼女の若いセンスで編み出されたことばを紹介しますね。
まだ見ていない方はぜひ『コヨーテ・ピストル』の舞台を見てくださいね!少なくとも演劇にまだパワーを感じる皆さんは見てほしいです!29日までです。写真などUPしたいが撮り忘れていた。劇場の周辺は撮ったかな?後でUPしますね。
「さよなら人類館」が気になっている。そこで1週間でもできるかな?福永が老女で?などと妄想している。毎週金曜日に何かが上演されるとか、毎週土曜日は太宰の一人芝居がやられるとか、でもいいね。小さな劇場の活性化をいっしょに考えたい。小さな街の隙間から何かが始まる気配がしている、と肯定的に見たい。暗いので暗さの中で明るい可能性を見たい。街の決壊から何かが見えてくるようなレンブラントのあの闇の中の光にも似たものに救いを求めたいような気持ちのようなものーー。
Mさんとは最近の若者の演劇について少し話した。というか私は聞き役で彼女のことばに耳を傾けた。先週行こうかどうか、結局論文をまとめるための言い訳で行かなかった「豚子と呼ばれて殺された女の子」の演劇、ヒューマンステージのことなど、興味をもった。パンダとか、ネーミングで拒絶感が起こっていたのは事実だ。さみしさゆえに一夜のSEXに明け暮れていたように見えた豚子について4人の男女が語り合う舞台だが、彼らの生々しい台詞が良かったという。中学生時代にレイプのような悪夢を体験した女の子が逆にSEXは楽しいもの、快楽だと割り切って生きていったその後のストーリーで、刹那的な愛(SEX)だが実は深い絆を求め続けた女の子の事が語られたという。女の子が身体を武器に男に頼るその感性のありようについてMさんは話していて、女の子の本音が語られていて良かったという。となると、見なかったことが悔やまれる。また再演してほしい。いいSEXといい結婚とは必ずしも一致しないし、奔放な性を生きた豚子は幸せだったのかもしれないーー?なぜ豚子だったのか、誰とも寝る女だから豚子だったのか?SEXのモメントだけに生きる喜びと希望があったのかもしれないーー?やはり舞台を見たかったけれども、彼女は若者たちの今が切り取られていると話した。それがとても印象に残っている。しかしなぜの部分は曖昧だったという。つまりなぜ豚子がそのような生き方をしたのか、の部分は避けていたということである。しかし、彼女のことばの中で想像できる事柄が浮かんではきた。---なぜ皆が彼女を語るのか?その辺に現在のすさびなり孤独なり虚無が滲んでいるーー。
まだまだ女性が自らのセクシュアリティを語れる空間は狭いと言える。すでに欲望が矯正されている社会の規範があり、その隙間のカオス、混沌の中に可能性なり真象があるのかどうか?豊かなセクシュアリティをどう生きて死んでいくか?今頃『セクシュアリティ』や『フェミニズム文学批評』を論文を書くために目を通している。上野千鶴子のセクシュアリティの定義は「性をめぐる観念と欲望の集合』である。これを今まとめている論文の定義にも使う事にした。