
佐藤優さんの新報に掲載されている評論集が出版されて、その出版記念パーティーが開催された様子が新聞に記事となって沖縄の作家・劇作家・評論家でもある大城立裕氏の顔写真も見える。大勢の方々がつめかけた様子が伺える。つまり沖縄の(もうある意味誰もが政治評論家の風情ももつ)実存に関心を持っていて、佐藤優氏の論法に魅了され、氏に大きな期待を寄せる方々の表情は真剣そのものである。
対して佐藤優氏の表情は大勢の人間のエネルギー・気・期待感に襲われて、何やら縮こもって、「これは、へたなことを言うとやばいよ」と思いながら対峙している風に見えなくもない。大和魂を称揚する佐藤氏が沖縄のインテリ層、メディア界の感性・知性をうまく手名付けて、沖縄の一般大衆の心象に身を言葉を一部矯正させながら地元に迎合し、沖縄の人々の関心/歓心を惹きつける話題でことばをつないでいることが、ある種人間の思潮のパロメーターに見えなくもない。
氏のことばはカレイドスコープでいかようにも対象によって姿を替える芸当をする。そうして言論界に生き伸びる。生きる縁(糧)を得る。フルに世界の混沌(カオス)、時代の潮流を見る。切り込む。そこからある種の推察をしことばにし続ける。過去の神学の学問と語学力で情報を丁寧に取り組む。分析する。世界のそれぞれの国の動きと対応させる。小さな沖縄、半分母を通じてその血が自らに流れている沖縄のスタンスも気になっている。そこの決めてはないのか?次々と発見できる古層から現代に至る宝がある、何せ、日本の主流は日本の軸が中心であり、うまく併合して利用した琉球弧の人間たちはその国家体制のトカゲのしっぽでしかないのだから、うまく喰わせ、それ以上に収奪するメリットを持っていい群島である。中身に深くコミットする必要はないと考えておかしくはない、
佐藤氏はそこでも十分にメリットを生かしていく。しかし、記事となった短い文面からさえ、氏のことばの嘘が滲んでいる、会場に詰め掛けている方々の真剣な表情は氏の微妙なことばの綾に気が付いているのか否か、気になった。
例えば【米国や中国だけでなく、日本も帝国主義化する中で無意識のうちに沖縄が内国植民地化される入口が辺野古基地だ。沖縄問題は日本の試金石になる。沖縄ときちんとむきえない国が、国際社会とうまく付き合えるわけがない」
「ほんとうにわれわれを同胞と思っているのかという根元的な、議論をする状況に、沖縄は追い込まれていくのではないか。沖縄が主体性を持たなければならない】
まず「無意識のうちに沖縄が内国植民地化される入口が辺野古基地だ」と氏はおっしゃっているが、沖縄が内国植民地で亜日本人だとの位置づけは1879年頃の日本への併合から始まっていることである。それ以前からかもしれない。例えば1609年から。何も最近の普天間飛行場を辺野古基地へ移設するという日米合意、その撤去を要求する繰り返される意思表示の現状(事態)のゆえに始まっているわけではない。おかしいね氏の認識は!辺野古への日本政府の強圧的政治姿勢が植民地化を象徴するものの一つであるとするとまだ納得できる、おだやかに見える作家の大城立裕氏でさえ、すでに60年代に国内植民地沖縄について言及している、と記憶している。
中央の論壇やネットの論評の中では強力なタカ派的発言をされていて、ここで分析されていることばは、ある面沖縄から発信されるメディアをうまく取り込んで要約した発言に思える。対象がどういう思いで時局に対しているか、そのリサーチを十分やっている方なのだろう。いわば沖縄の声を代弁的に要約して、聴衆の関心/歓心を得る手法である。
沖縄の声をうまく吸収し、それに迎合して見せる芸当をまた立派にやり遂げることのできる言論人が佐藤優ということのようだ。その点で沖縄の声を大和政府・メディアの中央に投げることができるスポークスマン的な立場に身を置いているという事だが、氏が二面性を絶えずもって対処しているのも、それは不思議ではない。
引き裂かれた自我なりアイデンティティーのことばをもってくると美しすぎる。その引き裂かれたものの中に氏の本音がどこに依拠しているのか、見たい。ミーム理論の著名な学者は宗教の嘘を書いてベストセラーになっている。神学に基づく氏の状況分析なり日本論や権力の分析はややもすると保守思考を限りなく追求しているように見える。決してコスモポリタン的な思考でもなく、あくまで日本人のアイデンティティーの軸の上で国家を超えられず、既成の構造を想定した上でさて、どうするかのレベルなのだろうか。チョムスキーのように米帝国主義を解体するために内部でことばを繰り出す英知・行為とは大きな差異を感じる。(社会学や政治学をやっている方々がもっとシャープに佐藤優現象を分析しその論理の決壊を見せてほしいと思う)
沖縄の感性を取り込むことによる発言に、ある種沖縄を代弁してしまっている様相も見えるが、そこに駆け付けた大勢の聴衆は期待を寄せているのだろうか?佐藤氏の発言にも変遷が見られるのは面白い。決して辺野古はダメだなどと以前は言えなかった方が、沖縄メディアを代弁するようにまでなっている。その変容ぶりに期待感が増すのか、しかし氏の本来の思考が簡単に偏向しえるのだろうか?同化と異化論にやがて移行していくのかもしれないね。大城立裕氏の論をまた吸収して、その論をいかにも御自分の論のような装飾でことばを操っていくのかもしれない方である。(予測)
私の関心は佐藤優ではなく、あくまで大城立裕氏である。氏の作品と氏の起立する魂の在り様に、切り立つ精神の震え、沖縄人としての矜持に興味を持っている。そして論稿の中にその精神の形をまとめてみたい!
【上記の文章を読み返してみて何を根拠にこんなことが書けるの?と自身に問うた。それは佐藤さんが書かれたウチナー評論のこの間のエッセイの中で、あれ、これおかしいな、と思った事と3.11以降に佐藤さんが【大和魂】の復活を称揚されていたことが念頭にある。エジプトの民衆蜂起があった時、佐藤さんは民衆の側に立ってことばを発することはなかった。あくまで国際政治のパワー構造について日本のメリットを探っていた。その時、この方の頭の中に民はいないのだと、思った。しかし今沖縄の出自を強調される中でどう変化していくか興味深いが、大城立裕さんが新作組踊本の解説に佐藤氏を指名するなどの現象に驚きを感じている。彼は一つの新作組踊をご覧になり、久米島とゆかりある新作組踊を【せりふの時代】に掲載させる力を持っている。だからでしょうか?中央とのパイプの必要性は大事である。
しかし、中身に深くコミットしていない方に迎合していく87歳の作家の姿も、たとえ佐藤氏のウルトラマンのような執筆活動が素晴らしく氏の語学力が優れているということもなるほどだとして、片親が沖縄出自の作家に傾倒していく沖縄のスタンスは何だろうと斜めに見ているわたしがいるのは確か!「あいつは上江洲由美子の従兄弟だろう」と身近な詩人も即座に言い切った。そうですね。出自は大事なんだろうか?沖縄の出自をもった優秀な方は日本の中に結構おられると思うのだが、単に大江健三郎が【沖縄ノート】で沖縄を語ることばと母親が久米島出身の佐藤氏が沖縄を語ることばに差異があるという事を意味するのだろうか?つまり佐藤氏は半ば沖縄人の当事者感覚で沖縄を語らざるをえない、という事からくる独特なニュアンスを持ち続けるという事を意味する。すると、私が上で書いた文章には問題が生じてくるのかどうか?しかし沖縄出身者にも、沖縄人にも多様な思考が実存(実在)しているのは確かで、ただ日本のわずか1%に満たない群島にやはり日本の1%そこそこの琉球(沖縄)人が生存しているということの意味は大きいに違いない。この独自の歴史や文化を有してきた琉球弧の人間たちは自らの主体的権利を行使したいと望んでいる。ああやはりたとえ佐藤氏が日本ナショナリズムを肩に背負っている方でも沖縄をまた背負えるという言論への期待は深いのだろうか?氏の言辞は注目したい。】
対して佐藤優氏の表情は大勢の人間のエネルギー・気・期待感に襲われて、何やら縮こもって、「これは、へたなことを言うとやばいよ」と思いながら対峙している風に見えなくもない。大和魂を称揚する佐藤氏が沖縄のインテリ層、メディア界の感性・知性をうまく手名付けて、沖縄の一般大衆の心象に身を言葉を一部矯正させながら地元に迎合し、沖縄の人々の関心/歓心を惹きつける話題でことばをつないでいることが、ある種人間の思潮のパロメーターに見えなくもない。
氏のことばはカレイドスコープでいかようにも対象によって姿を替える芸当をする。そうして言論界に生き伸びる。生きる縁(糧)を得る。フルに世界の混沌(カオス)、時代の潮流を見る。切り込む。そこからある種の推察をしことばにし続ける。過去の神学の学問と語学力で情報を丁寧に取り組む。分析する。世界のそれぞれの国の動きと対応させる。小さな沖縄、半分母を通じてその血が自らに流れている沖縄のスタンスも気になっている。そこの決めてはないのか?次々と発見できる古層から現代に至る宝がある、何せ、日本の主流は日本の軸が中心であり、うまく併合して利用した琉球弧の人間たちはその国家体制のトカゲのしっぽでしかないのだから、うまく喰わせ、それ以上に収奪するメリットを持っていい群島である。中身に深くコミットする必要はないと考えておかしくはない、
佐藤氏はそこでも十分にメリットを生かしていく。しかし、記事となった短い文面からさえ、氏のことばの嘘が滲んでいる、会場に詰め掛けている方々の真剣な表情は氏の微妙なことばの綾に気が付いているのか否か、気になった。
例えば【米国や中国だけでなく、日本も帝国主義化する中で無意識のうちに沖縄が内国植民地化される入口が辺野古基地だ。沖縄問題は日本の試金石になる。沖縄ときちんとむきえない国が、国際社会とうまく付き合えるわけがない」
「ほんとうにわれわれを同胞と思っているのかという根元的な、議論をする状況に、沖縄は追い込まれていくのではないか。沖縄が主体性を持たなければならない】
まず「無意識のうちに沖縄が内国植民地化される入口が辺野古基地だ」と氏はおっしゃっているが、沖縄が内国植民地で亜日本人だとの位置づけは1879年頃の日本への併合から始まっていることである。それ以前からかもしれない。例えば1609年から。何も最近の普天間飛行場を辺野古基地へ移設するという日米合意、その撤去を要求する繰り返される意思表示の現状(事態)のゆえに始まっているわけではない。おかしいね氏の認識は!辺野古への日本政府の強圧的政治姿勢が植民地化を象徴するものの一つであるとするとまだ納得できる、おだやかに見える作家の大城立裕氏でさえ、すでに60年代に国内植民地沖縄について言及している、と記憶している。
中央の論壇やネットの論評の中では強力なタカ派的発言をされていて、ここで分析されていることばは、ある面沖縄から発信されるメディアをうまく取り込んで要約した発言に思える。対象がどういう思いで時局に対しているか、そのリサーチを十分やっている方なのだろう。いわば沖縄の声を代弁的に要約して、聴衆の関心/歓心を得る手法である。
沖縄の声をうまく吸収し、それに迎合して見せる芸当をまた立派にやり遂げることのできる言論人が佐藤優ということのようだ。その点で沖縄の声を大和政府・メディアの中央に投げることができるスポークスマン的な立場に身を置いているという事だが、氏が二面性を絶えずもって対処しているのも、それは不思議ではない。
引き裂かれた自我なりアイデンティティーのことばをもってくると美しすぎる。その引き裂かれたものの中に氏の本音がどこに依拠しているのか、見たい。ミーム理論の著名な学者は宗教の嘘を書いてベストセラーになっている。神学に基づく氏の状況分析なり日本論や権力の分析はややもすると保守思考を限りなく追求しているように見える。決してコスモポリタン的な思考でもなく、あくまで日本人のアイデンティティーの軸の上で国家を超えられず、既成の構造を想定した上でさて、どうするかのレベルなのだろうか。チョムスキーのように米帝国主義を解体するために内部でことばを繰り出す英知・行為とは大きな差異を感じる。(社会学や政治学をやっている方々がもっとシャープに佐藤優現象を分析しその論理の決壊を見せてほしいと思う)
沖縄の感性を取り込むことによる発言に、ある種沖縄を代弁してしまっている様相も見えるが、そこに駆け付けた大勢の聴衆は期待を寄せているのだろうか?佐藤氏の発言にも変遷が見られるのは面白い。決して辺野古はダメだなどと以前は言えなかった方が、沖縄メディアを代弁するようにまでなっている。その変容ぶりに期待感が増すのか、しかし氏の本来の思考が簡単に偏向しえるのだろうか?同化と異化論にやがて移行していくのかもしれないね。大城立裕氏の論をまた吸収して、その論をいかにも御自分の論のような装飾でことばを操っていくのかもしれない方である。(予測)
私の関心は佐藤優ではなく、あくまで大城立裕氏である。氏の作品と氏の起立する魂の在り様に、切り立つ精神の震え、沖縄人としての矜持に興味を持っている。そして論稿の中にその精神の形をまとめてみたい!
【上記の文章を読み返してみて何を根拠にこんなことが書けるの?と自身に問うた。それは佐藤さんが書かれたウチナー評論のこの間のエッセイの中で、あれ、これおかしいな、と思った事と3.11以降に佐藤さんが【大和魂】の復活を称揚されていたことが念頭にある。エジプトの民衆蜂起があった時、佐藤さんは民衆の側に立ってことばを発することはなかった。あくまで国際政治のパワー構造について日本のメリットを探っていた。その時、この方の頭の中に民はいないのだと、思った。しかし今沖縄の出自を強調される中でどう変化していくか興味深いが、大城立裕さんが新作組踊本の解説に佐藤氏を指名するなどの現象に驚きを感じている。彼は一つの新作組踊をご覧になり、久米島とゆかりある新作組踊を【せりふの時代】に掲載させる力を持っている。だからでしょうか?中央とのパイプの必要性は大事である。
しかし、中身に深くコミットしていない方に迎合していく87歳の作家の姿も、たとえ佐藤氏のウルトラマンのような執筆活動が素晴らしく氏の語学力が優れているということもなるほどだとして、片親が沖縄出自の作家に傾倒していく沖縄のスタンスは何だろうと斜めに見ているわたしがいるのは確か!「あいつは上江洲由美子の従兄弟だろう」と身近な詩人も即座に言い切った。そうですね。出自は大事なんだろうか?沖縄の出自をもった優秀な方は日本の中に結構おられると思うのだが、単に大江健三郎が【沖縄ノート】で沖縄を語ることばと母親が久米島出身の佐藤氏が沖縄を語ることばに差異があるという事を意味するのだろうか?つまり佐藤氏は半ば沖縄人の当事者感覚で沖縄を語らざるをえない、という事からくる独特なニュアンスを持ち続けるという事を意味する。すると、私が上で書いた文章には問題が生じてくるのかどうか?しかし沖縄出身者にも、沖縄人にも多様な思考が実存(実在)しているのは確かで、ただ日本のわずか1%に満たない群島にやはり日本の1%そこそこの琉球(沖縄)人が生存しているということの意味は大きいに違いない。この独自の歴史や文化を有してきた琉球弧の人間たちは自らの主体的権利を行使したいと望んでいる。ああやはりたとえ佐藤氏が日本ナショナリズムを肩に背負っている方でも沖縄をまた背負えるという言論への期待は深いのだろうか?氏の言辞は注目したい。】