御寺(みてら)と呼ぶのだそうである。
おてら、ではない。
第二十番札所、泉涌寺は四条天皇以来たくさんの皇室の方々が葬儀をされた、と言う事で呼び方が違うのだとか、書いてあったのは瀬戸内寂聴さんの「京まんだら」という小説。
それを読んで一度、行ってみたことがある。
小説の中でも、参道に入る前の電車道はざわついて落ち着きがない、と書かれているが、確かにその通りで、この奥に本当にそんなスゴイお寺があるのか?という雰囲気だが、
あるのだ。参道に入ると急に静かになる。
参道途中にある第二十五番法音院、第十九番今熊野観音寺を先に。法音院はきれいに整った小さなおうちのようなお堂だが、投げ縄であらゆる人を救ってくれる!という不空羂索観音が本尊。そういう観音様がいるんだ…
写真を見ると観音様らしく色々飾りもついている。このスタイルで投げ縄ひゅっとしている所想像してみる。
なかなかクールだ。
そして七福神の「寿老人」も祀られている。小さいがなかなかご利益のあるお寺。
今熊野観音寺は思いがけなく敷地の広いお寺だった。前回泉涌寺に来た時は全く気付いていなかったが。
木々の向こうに道が続き涼しげな様子、橋がかかっている。
山の中腹に塔が見えるがこれにも前回は気づかず。
弘法大師開創のお寺。巡礼ガイドのこのお寺のページには、私は「頭痛」と書いたタグをつけてあった。ぼけ封じ、頭痛封じに霊験あらたかという事だったので…。
頭痛もちの私としてはそこがポイントであった。
あまりアクセスの良い場所ではないが、案外に沢山参詣者がいる。
そしてここにも京都弁男。良くしゃべる奴で、一緒に来ている彼女に(こちらはまじめそうな地味な女性だが)「…ちゃん、そこ立ってみ~写真撮ったる」
「あ、ええなあ~~ここ~~あ、そうや、ご朱印もらってくるわあ」
しまいには本堂でスマホで写真撮りまくる。
「観音様おるや~ん。あそこや~~」
おいおい仏様の写真撮るって…と思った瞬間、年配の参拝客の男性に注意される。
「え~だって写真ダメって書いてへんし~~」
いや、普通ダメじゃないか?
全く。かえって頭痛起きそうだわ。
さて、泉涌寺。字を見ても気づいていなかったのだが泉が涌き出てきた事からそういう名前になったそうだ。今でも水屋形が残っていて、水も沸いているそう。
このお寺は面白いロケーションにあり、山の中ではあるのだが、参道を上がって、上がりきったら下がるのだ。
「京まんだら」でも寂聴さんが書いている。
その底に広大な庭が開け、仏殿が真中に、その背後に他の殿堂が立ち並んでいる。門の下にそれらの建物の屋根が重々しく沈んでいるため、ふと、この世ならぬ海底の寺院を見るように思う。
初めて来たときに思ったのは「小説家って上手に書くなあ…想像力豊かだな」
この世ならぬ海底寺院…っていうほどの感動はないのだ。実は。皇室の方々が来られるお寺だから、物凄く整備されてきれいだが、境内は整い過ぎてそれほど面白味はない気がする。
前回は入らなかった御座所の見学に入ってみる。
こちらはずいぶん静か。
勅使の間や門跡の間、皇族の間が並ぶ前にこぎれいな庭。
それにしても昔の人ってやっぱり背が低かったんだな…
古いお寺に行くといつもそう思う。身長156センチの私でも、ちょっと頭心配になる位の鴨居もある。
天皇皇后両陛下、皇太子さま達がいらした時の写真があちこちに飾ってあるが、ご休憩になられた「皇族の間」も天井低い。秋篠宮様など頭をぶつけないだろうか?
御座所なのだから、豪華に作ってある訳で、それなら普通の家よりも天井高いのではないか、それでもこれだけ低いのなら、男性でも私より小さい人が多かっただろう。
19世紀、明治時代の建物だそうだが、200年経つと身長もずいぶん変わるんだろうな。
さて、ここの観音様は泉涌寺自体より知られているかも。私も前回はこの観音様に会うために行ったのだが。
楊貴妃観音殿は泉涌寺へ降りていく前、門のすぐ左手だ。
あれ?
こんな感じだったかな?
もっと古びた風だったような...
きちんと整備された敷地の奥にお堂。
前回は17、8年前なのだからその間に整備したのだろう。
前回撮ったお堂前の写真を見つけた。
こっちのほうが良かったのでは。
寂聴さんは、小説の登場人物にこう語らせている。
極彩色の美しい観音は、楊貴妃をモデルにした中国渡りのものというが、人間臭い美しさが目立ちすぎ、観音らしい尊さはあまり感じられない。百年に一度の開帳だったから、これだけの極彩色が損なわれず、この真新しさを保っているのだろう。
そう、確かに綺麗なお顔だが、「有難い」雰囲気は薄い気が。
小説では色が残っていることになっているが、書かれたころには残っていたのか?今はほとんど真っ黒だ。
側に写真があって、赤い色がはっきりわかるのだが、これは昔のか、それとも加工?と思ってしまう。
仏像もお国柄が出るが、この観音様は大まかな目鼻立ち、切れ長の大きな目がやはり中国美人風なのが面白い。
さて、第十八番善能寺。ここは小さい観音堂だけ。
山の中の静かな一角にぽつんと。
こう言う所が案外良い。
ここも弘法大師創建だそうだが、お堂自体は「ばんだい号」事故の慰霊の為寄進されたとか。私の9歳の時だから、しばらく振りに聞いた事故の名前、確かその頃はいくつか航空機事故が続いたと記憶している。
さあ、お昼でも?
次の法性寺へ行く途中で十割蕎麦とコーヒー(?)の店を見つける。
あ、「隣の人間国宝」のお札が貼ってある!
たまたま近くに座っていた男性がガイドブックの編集者らしく取材を頼んでいる。
聞き耳を立ててみると、「隣の...」を貰う店に限っては、先にちゃんと取材が入っており、「よーいドン」の円さんが突然入って決めるんではないそう。ま、そうだよね...
もり蕎麦もコーヒーも、間違いのない味だった。
法性寺は京阪電車の線路のすぐ側、あまり落ち着きのない車道に面しており、門には扉があり鍵もかかっている。
普通の家位の大きさ。しかし昔は藤原氏の氏寺として栄えたという。
脇の通用門に何故か2つ、インターホンが。
2つ目の方で返事が。
「どちらさん?」
「お詣りできます?」
「参拝はできませんけど朱印はしますよ」
腰が曲がって二つ折り、という風情の年配女性が玄関先でぽーんと座布団投げて寄越してくれる。なんとなく、笑えてくる。
「かけて待ってて下さい」
ご朱印も書くの大変そう。かなり時間かかっている。なんだか申し訳ない。
待っている間に後ろから私と同年輩の男性が。
やはり洛陽三十三所を回って、後は東寺に行って終わりだとか。
あまり話しかけられたくなさそうだったので、小さな家の庭先風な空間で黙って待つ。
ここの二十七面千手観音様は藤原氏が創建当時のもので国宝だとか。見られないのが残念である。
外に出ると自転車が停めてある。さっきの男性のものらしい。
さて、京都駅まで戻り、最後は第二十二番札所、城興寺。
以仁王の乱、の以仁王ゆかりのお寺、ここの知行権を以仁王から奪ったことも乱の原因になった、ということらしい。
鎮護国家の大きな道場だったというが今では小さな本堂と「薬院社」という社があるだけの小ぢんまりした敷地である。
最近では「小指みくじ」というのがあって、励ましの言葉が書いてあるようだ。
自転車でさっと門を出ていく人がいた。
あ、さっき法性寺で会った男性である。 東寺へ行くといっていたが、ここは東寺からすぐ近く。城興寺を打ってこれから東寺へ行くのだろう。
先ほどの泉涌寺付近から先回りしてきたらしい。私は電車で京都駅に戻り地下鉄でここまで来たが、自転車なら九条通りを直線で来られるはず、早いだろう。
チャリで観音霊場めぐりというのは新しい気がする。あの様子ではいっぺんに沢山廻っているのだろう。まじめそうな、サラリーマン風だったけれど、何を祈願しているのかな。
おてら、ではない。
第二十番札所、泉涌寺は四条天皇以来たくさんの皇室の方々が葬儀をされた、と言う事で呼び方が違うのだとか、書いてあったのは瀬戸内寂聴さんの「京まんだら」という小説。
それを読んで一度、行ってみたことがある。
小説の中でも、参道に入る前の電車道はざわついて落ち着きがない、と書かれているが、確かにその通りで、この奥に本当にそんなスゴイお寺があるのか?という雰囲気だが、
あるのだ。参道に入ると急に静かになる。
参道途中にある第二十五番法音院、第十九番今熊野観音寺を先に。法音院はきれいに整った小さなおうちのようなお堂だが、投げ縄であらゆる人を救ってくれる!という不空羂索観音が本尊。そういう観音様がいるんだ…
写真を見ると観音様らしく色々飾りもついている。このスタイルで投げ縄ひゅっとしている所想像してみる。
なかなかクールだ。
そして七福神の「寿老人」も祀られている。小さいがなかなかご利益のあるお寺。
今熊野観音寺は思いがけなく敷地の広いお寺だった。前回泉涌寺に来た時は全く気付いていなかったが。
木々の向こうに道が続き涼しげな様子、橋がかかっている。
山の中腹に塔が見えるがこれにも前回は気づかず。
弘法大師開創のお寺。巡礼ガイドのこのお寺のページには、私は「頭痛」と書いたタグをつけてあった。ぼけ封じ、頭痛封じに霊験あらたかという事だったので…。
頭痛もちの私としてはそこがポイントであった。
あまりアクセスの良い場所ではないが、案外に沢山参詣者がいる。
そしてここにも京都弁男。良くしゃべる奴で、一緒に来ている彼女に(こちらはまじめそうな地味な女性だが)「…ちゃん、そこ立ってみ~写真撮ったる」
「あ、ええなあ~~ここ~~あ、そうや、ご朱印もらってくるわあ」
しまいには本堂でスマホで写真撮りまくる。
「観音様おるや~ん。あそこや~~」
おいおい仏様の写真撮るって…と思った瞬間、年配の参拝客の男性に注意される。
「え~だって写真ダメって書いてへんし~~」
いや、普通ダメじゃないか?
全く。かえって頭痛起きそうだわ。
さて、泉涌寺。字を見ても気づいていなかったのだが泉が涌き出てきた事からそういう名前になったそうだ。今でも水屋形が残っていて、水も沸いているそう。
このお寺は面白いロケーションにあり、山の中ではあるのだが、参道を上がって、上がりきったら下がるのだ。
「京まんだら」でも寂聴さんが書いている。
その底に広大な庭が開け、仏殿が真中に、その背後に他の殿堂が立ち並んでいる。門の下にそれらの建物の屋根が重々しく沈んでいるため、ふと、この世ならぬ海底の寺院を見るように思う。
初めて来たときに思ったのは「小説家って上手に書くなあ…想像力豊かだな」
この世ならぬ海底寺院…っていうほどの感動はないのだ。実は。皇室の方々が来られるお寺だから、物凄く整備されてきれいだが、境内は整い過ぎてそれほど面白味はない気がする。
前回は入らなかった御座所の見学に入ってみる。
こちらはずいぶん静か。
勅使の間や門跡の間、皇族の間が並ぶ前にこぎれいな庭。
それにしても昔の人ってやっぱり背が低かったんだな…
古いお寺に行くといつもそう思う。身長156センチの私でも、ちょっと頭心配になる位の鴨居もある。
天皇皇后両陛下、皇太子さま達がいらした時の写真があちこちに飾ってあるが、ご休憩になられた「皇族の間」も天井低い。秋篠宮様など頭をぶつけないだろうか?
御座所なのだから、豪華に作ってある訳で、それなら普通の家よりも天井高いのではないか、それでもこれだけ低いのなら、男性でも私より小さい人が多かっただろう。
19世紀、明治時代の建物だそうだが、200年経つと身長もずいぶん変わるんだろうな。
さて、ここの観音様は泉涌寺自体より知られているかも。私も前回はこの観音様に会うために行ったのだが。
楊貴妃観音殿は泉涌寺へ降りていく前、門のすぐ左手だ。
あれ?
こんな感じだったかな?
もっと古びた風だったような...
きちんと整備された敷地の奥にお堂。
前回は17、8年前なのだからその間に整備したのだろう。
前回撮ったお堂前の写真を見つけた。
こっちのほうが良かったのでは。
寂聴さんは、小説の登場人物にこう語らせている。
極彩色の美しい観音は、楊貴妃をモデルにした中国渡りのものというが、人間臭い美しさが目立ちすぎ、観音らしい尊さはあまり感じられない。百年に一度の開帳だったから、これだけの極彩色が損なわれず、この真新しさを保っているのだろう。
そう、確かに綺麗なお顔だが、「有難い」雰囲気は薄い気が。
小説では色が残っていることになっているが、書かれたころには残っていたのか?今はほとんど真っ黒だ。
側に写真があって、赤い色がはっきりわかるのだが、これは昔のか、それとも加工?と思ってしまう。
仏像もお国柄が出るが、この観音様は大まかな目鼻立ち、切れ長の大きな目がやはり中国美人風なのが面白い。
さて、第十八番善能寺。ここは小さい観音堂だけ。
山の中の静かな一角にぽつんと。
こう言う所が案外良い。
ここも弘法大師創建だそうだが、お堂自体は「ばんだい号」事故の慰霊の為寄進されたとか。私の9歳の時だから、しばらく振りに聞いた事故の名前、確かその頃はいくつか航空機事故が続いたと記憶している。
さあ、お昼でも?
次の法性寺へ行く途中で十割蕎麦とコーヒー(?)の店を見つける。
あ、「隣の人間国宝」のお札が貼ってある!
たまたま近くに座っていた男性がガイドブックの編集者らしく取材を頼んでいる。
聞き耳を立ててみると、「隣の...」を貰う店に限っては、先にちゃんと取材が入っており、「よーいドン」の円さんが突然入って決めるんではないそう。ま、そうだよね...
もり蕎麦もコーヒーも、間違いのない味だった。
法性寺は京阪電車の線路のすぐ側、あまり落ち着きのない車道に面しており、門には扉があり鍵もかかっている。
普通の家位の大きさ。しかし昔は藤原氏の氏寺として栄えたという。
脇の通用門に何故か2つ、インターホンが。
2つ目の方で返事が。
「どちらさん?」
「お詣りできます?」
「参拝はできませんけど朱印はしますよ」
腰が曲がって二つ折り、という風情の年配女性が玄関先でぽーんと座布団投げて寄越してくれる。なんとなく、笑えてくる。
「かけて待ってて下さい」
ご朱印も書くの大変そう。かなり時間かかっている。なんだか申し訳ない。
待っている間に後ろから私と同年輩の男性が。
やはり洛陽三十三所を回って、後は東寺に行って終わりだとか。
あまり話しかけられたくなさそうだったので、小さな家の庭先風な空間で黙って待つ。
ここの二十七面千手観音様は藤原氏が創建当時のもので国宝だとか。見られないのが残念である。
外に出ると自転車が停めてある。さっきの男性のものらしい。
さて、京都駅まで戻り、最後は第二十二番札所、城興寺。
以仁王の乱、の以仁王ゆかりのお寺、ここの知行権を以仁王から奪ったことも乱の原因になった、ということらしい。
鎮護国家の大きな道場だったというが今では小さな本堂と「薬院社」という社があるだけの小ぢんまりした敷地である。
最近では「小指みくじ」というのがあって、励ましの言葉が書いてあるようだ。
自転車でさっと門を出ていく人がいた。
あ、さっき法性寺で会った男性である。 東寺へ行くといっていたが、ここは東寺からすぐ近く。城興寺を打ってこれから東寺へ行くのだろう。
先ほどの泉涌寺付近から先回りしてきたらしい。私は電車で京都駅に戻り地下鉄でここまで来たが、自転車なら九条通りを直線で来られるはず、早いだろう。
チャリで観音霊場めぐりというのは新しい気がする。あの様子ではいっぺんに沢山廻っているのだろう。まじめそうな、サラリーマン風だったけれど、何を祈願しているのかな。
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