
色々なマスメディアの場で話しているので、今更ではあるが、自分は米屋になる気持ちは、全く無かった。
元々は、獣医志望であった。
しかしそれが、自分には不向きである事が判り、生き物に触る事が出来ない獣医と言われた、当時の獣医畜産学部にあった、畜産土木工学科に進み、自然と生き物と人間と人口物との共存を考える道(今だと環境学部)を選んだ。
卒業式を待たずに、青森県十和田市のキャンパスから、北海道深川市の財団法人北海道農業近代化技術コンサルタントに就職した。
河川汚染を切っ掛けに出来たコンサルタントで、自分の進みたい道に、当時一番近かったからである。
しかし当時は、まだ環境保全という言葉すら無く、仕事も農業土木の設計だかりであった。
その中で、先輩技師が引くダムや農道、河川改修や用排水の図面を見ていて、「これだと、環境が維持出来ない、バランスが崩れるだけだ」と、1人だげが焦って空回りしていた。
その時に、母親が病気で長期入院となり、コンサルタントでの仕事を諦め、3代目として米屋を継ぐ道を選んだのだ。
しかし、環境保全の思いは断ち消す事が出来ず、環境保全を考えた米作りと産地ブランドを提案する、異色な米屋になっていったのである。