私の大好きな俳優の一人<菅原文太さん>が、11月26日のNHK映像ファイル「あの人に会いたい」に、再び登場された。
菅原文太さんの後半生の生き様については、以前にも、このブログで書かせてもらった。
その時の内容とほとんど変わらないかも知れないけれど、今回、文太さんの映像に改めて接すると、もう一度、文太さんの
生き様と、それから私が受けた<衝撃・共感・感動>を書いておきたいという、強い衝動に突き動かされてしまった。
俳優人生の前半、菅原文太さんは「任侠映画」や「トラック野郎」などで、人気を得てこられた。
その俳優生活を冗談交じりに振り返りながら、彼は、次のように言われる。
そして彼は、井上ひさし作 「吉里吉里(キリキリ)人」 (東北の小さな村が、日本国から独立を宣言する小説) の映画化に、取り
組まれる。
その映画化は残念ながら成功しなかったが、その頃から彼の目は、庶民の暮らしに向けられるようになる。
なかんずく、地方の自然の中で暮らされる庶民の暮らしに‥。
彼は地方を訪ねられ、そこで暮らしを営む人々との交流を深められ、自らも、<完全無農薬の農業>に取り組まれる。
そんな彼に大きな打撃を与えたのが、<2011.3.11>の、あの<東日本大震災>と、東電による<福島原発事故>だった。
彼は言われる。
そして、続けて‥
「人間の領域を超えているようなものを 人間がいじったことが もとにあるわけだから…」 と、原発を導入した政治と経済を
痛烈に批判され、事故までそれに気付かなかった自分自身にも、痛切な反省の目を向けられる。
そしてその後文太さんは、俳優業をやめられ、専ら、<脱原発・平和をうったえる活動>に邁進される。
そしてそれは、彼の死の直前まで、続いた。
2014年11月1日の沖縄で、文太さんが病いをおして語られる姿…。
「沖縄の風土も 本土の風土も 山も海も 空気も風も 国家のものではありません。
そこに住んでいる人たちのものです。」
そして<国家の役割>について、彼は次のように訴えられた。
「 国民を飢えさせないこと 」 「 安全な食べ物を食べさせること 」
「 もうひとつは、これが最も大事です! <絶対に戦争をしないこと> 」
この訴えをされて程なく、彼は私たちにその願いを託して、永遠の眠りにつかれた。
前のブログで書かせてもらった永六輔さん同様、菅原文太さんも、自らの命を懸けて、<平和>や<脱原発>を訴えられた。
永さんは、マスコミに関わる人間は、「決してスタジオの中でモノを考えてはいけない!」という考えのもと、各地の視聴者のもと
を訪ねられ、取材するという姿勢を貫かれた。
そして、後年パーキンソン病を患いながらも、ラジオ放送で平和の大切さを彼独特の語り口で語り続けられた。
そして文太さんは、前述のように、自然と命を大切にする仕事(農業など)を実際になさりながら、最期まで壇上に立たれた。
お二人に共通する素晴らしさは、口先だけではなく、自分の実践で自分の考え・願いを訴えられたことだ。
本当に素晴らしい先輩たちだ!
でもその先輩たちは、もうこの世にはおられない。
菅原文太さんが、<脱原発・平和>を訴えつつ逝去されてから、早や2年の歳月が流れる。
この2年の間に、日本はどう変わっただろうか?
残念ながら現実は、まるで文太さんの願いを踏みにじるかのように、<原発の再稼働> が推し進められ、恐ろしいことに 、
<原発や武器の海外輸出>さえも、画策されている。
本当に、情けなく悲しい!
そのような危険な動きを、私たちはどうしたら食い止めることができるのだろう!?
情けないけれど、今の私にはその方法がよく分からない。
でもとにかく、諦めてしまってはいけないのだ!
永さん同様、病いをおして壇上に立たれた文太さんの熱い想いを心にしっかり留めて、何とか前を向きたいと思う。
上の内容と全く関係ないけれど、今朝射し込む朝日に惹かれて撮った、何ということもないテーブルの写真と、Nさんからずっと
前にいただいていて載せられなかった、金木犀の<絵てがみ>を、載せさせていただきます。