昨日の午前中はお天気も良かったので、友だちの家に行った序でに、久方ぶりに中津公園に寄ってみた。
公園の上には、春めいた青空が広がっていた。
かすかに先端を膨らませた桜の枝が、青空に向かって伸びている。
公園の花壇の花たち。
公園にある2本の白梅も、大分花を開いていた。
昨日の午前中はお天気も良かったので、友だちの家に行った序でに、久方ぶりに中津公園に寄ってみた。
公園の上には、春めいた青空が広がっていた。
かすかに先端を膨らませた桜の枝が、青空に向かって伸びている。
公園の花壇の花たち。
公園にある2本の白梅も、大分花を開いていた。
一昨日(26日)は、ご近所のオバチャン5人で、天神橋筋商店街の焼肉屋さんに、ランチを食べにいくことになって
いた。
ところが一昨日は一日中、生憎の雨。
私は初めは地下鉄を乗り継いで行くつもりだったが、約束の時間に遅れそうになって、結局タクシーに乗った。
(天神橋六丁目≪通称、天六≫は、直線距離では近いのに、交通の便が悪いのだ。)
私を除く4人のうち、私と同い年の一人を除いて、皆さん、私より10歳くらい年上だ。
それなのに、皆さんが激しい雨の中を、自転車で来られたのには、ビックリした。
やっぱり、大阪のオバチャンは、たくましい!
それはさて置き、昨日いただいた焼肉定食(800円也)は、とっても美味しかった。(写真を撮り忘れたのが残念!)
お世話いただいたHさん、ホントにありがとうございました。
ランチの後はそれぞれに別れ、私はカラオケ大好きの2人にくっついて、1時間ほどジャンカラに行った。
ジャンカラでは、いろんな飲み物もタダで飲めて、1時間の料金がたったの220円。 安い!
カラオケの後、3人はそれぞれに別れた。
私はこの際、日本一長い商店街である≪天神筋橋商店街≫を、天六から北に向かって歩いてみることにした。
~天六から見た、天神橋筋商店街のアーケード~
商店街には、昔懐かしい古本屋「天牛書店」があった。(左)
右下の写真は、商店街のシンボルマークのついたお店の看板。
商店街が3丁目になると、アーケードの屋根の下に、鳥居が吊るされている。
地下鉄・南森町駅付近まで来ると、私が以前数年間通っていた「中国語学院」が入っているビルがある。
懐かしくなってそのビルに入り、エレベーターに乗って学院のある3階まで行ってみた。
そのビルの中の装飾と、エレベーターの天井。
南森町駅を過ぎると、商店街は、大きな道路を隔てて、天神橋2丁目へと続く。
2丁目をちょっと歩くと、≪大阪天満宮≫はすぐそこだ。
そして、天満宮に行く途中に、≪天満天神繁盛亭≫がある。
≪大阪天満宮≫に到着した。
~天満宮の建物~
~天満宮の梅~
一昨日は、ずっと雨が降り続いていた。
天満宮の梅も雨に打たれ、花も枝も滴に濡れていた。
天満宮の境内を出て商店街に戻ろうとしたが、私の方向音痴が幸いして、天満宮近くの小さなお宮に辿りついた。
そのお宮の庭には、天満宮よりも多くの梅の木があって、私を喜ばせた。
そこの梅も雨に打たれて滴に濡れ、花びらが地面に散り敷いていた。
思いがけず余分の梅見までできて喜んだ私だったが、雨の中写真を撮りまくって、ちょっと疲れてきた。
ホントは天神橋一丁目まで行きたかったが、無理してはいけないと思い、ここで引き返した。
地下鉄・南森町駅近くに、かつてよく行った喫茶店がある。
私は地下鉄に乗る前に、懐かしいこの喫茶店に寄って、コーヒーを飲みながら体と心を温めた。
かつて坐った席で、かつて飲んだコーヒーを味わいながらしばらく休んだ後、私は帰途についた。
ハイビスカスがせっかく2つも蕾を付けたのに、私の怠惰のためにその蕾を枯らしてしまったこと、でもその後、ハイ
ビスカスが奇跡の復活を遂げて花を咲かせたことは、以前のブログに書いた。
そのときは、大きい方の蕾が咲いたのだけれど、先日18日には、2つ目の蕾も、花を開いた!
しかも2つ目の花は、1つ目のような歪な形にもならず、小振りながら完全な花の形をしている。
なんという、愛おしさ!
私はすぐカメラを取ってきて、その姿を写真に撮った。
去る24日には、待ちに待った“デコポン”が、今年もM姉から送られてきた。
今回送られてきたデコポンは、贈答用の大きく立派なもので、全部で12個入っている。
私がデコポンをどれだけ好きかは、去年のブログに詳しく書いたので、今回は止めておくけれど、デコポンは何度
見ても、本当に愛すべき形をしているなあ、とつくづく思う。
それに、その愛すべき形も、一定ではなく、個々にそれぞれ個性的だ。
下の写真は、その代表的な2つの形です。
今年のデコポンも、ジューシーで甘く、とても美味しいことは、言うまでもない。
私は、姉に感謝しつつ、日々、デコポンの味を楽しませてもらっている。
≪追加≫
ずいぶん前(昨年の11月くらいかな?)に、我が家の“アロエ”に初めて蕾が付いたことを、ブログに書いた。
しかしその後、待てど暮らせど、蕾は大きくならず、なかなか花は開きそうもない。
それでも今月くらいになって、蕾の中から、少しずつアロエの花特有のオレンジ色が、現われるようになってきた。
花の満開にはまだほど遠いけれど、満開の時期まで待ちきれなくて、今日写真を撮った。
我が家のアロエくんは、今、こんな姿をしています。
その後も、梅林の中の小路を歩きながら、写真を撮った。
再び大阪城が、梅の間(向こう)に見えてきた。
今度は、白梅(ちょっと紅梅も)を前景に、大阪城を撮ってみる。
白梅の向こうの大阪城を撮ってから、私は梅林を後にした。
帰りは地下鉄谷町線に乗ることにして、谷町四丁目の駅に向かうために坂道を上って行った。
坂道を上ると、下に広がる梅林が、(全体の半分くらいだけれど)見渡せる。
そこから見ると、昨日の梅林は、まだ2~3分咲きにも達していないように感じられた。
(これが全部花を開くと、ホントに綺麗なんだけれど‥。)
坂道を上りきって、(ユリカモメを見たのとは反対側の)お濠の近くに来た。
次の写真は、そこから眺めたお濠の石垣と水の情景。
そして、この写真を最後に、私はいよいよ帰途についた。
梅林に到着!
上の梅林の標識を左手に行くと、眼前に、梅林が広がる。
しかし、並んで植えられている木々の中で、花を付けている梅の木はまだ少なく、全体的に見て、2~3分咲き
というところだった。
そんな中で、比較的花をよく付けている木を選んで、写真を撮りながら歩いた。
次は、梅の花のアップの幾つか。(ピンボケもありますが、お許しを)
梅は、その花の可憐な美しさや芳しさで私たちを惹きつけるが、それを支える幹の存在感もすごい。
特に老木のごつごつした幹を見ていると、思わず脱帽してしまう。
梅林からちょっと目を転じて、梅林のすぐ傍のお濠を覗いてみた。
お濠の水は木々などの影を静かに映し、一方では、沢山の小鳥を浮かべていた。
お濠に垂れ下がる木々の枝と、その間に点在する小鳥たちとの組み合わせが、ちょっと面白く感じられた。
再び梅林に戻って、紅梅を前景にした大阪城を撮ってみた。
天気予報では、昨日は晴れのはずだったのに、(少なくとも私が梅園にいた時間は)梅園の上に、青空は無かった。
青空があれば、もう少し素敵な大阪城の写真が撮れたかも知れないのに、残念だった。
昨日は、3週間ごとに循環器内科(血圧)のお医者さんに行く日。
11時半の予約だった。
順調にいけば、お昼過ぎには診察も薬の受け取りも終わるだろう。
その後、どうしようかな?
昨日は、あまり体調は良くなかった。
でもだからと言って、家に帰れば、ゴロゴロしてテレビを見るのがオチだ。
そこで、思い切って(と言っても近場だが)“大阪城梅林の梅”を見に行くことにした。
でも、腹が減っては戦ができぬ。
そこで私は、お医者さんの後、そのまま歩いて梅田に出て、先ずはランチを食べることにした。
昨日は、今まで行ったことのない、ヨドバシカメラのレストラン街に行ってみた。
ヨドバシカメラのレストラン街は、何となく若者向きな感じがして、今まで敬遠していた。
でも昨日は、何となく行ってみようかという気になって、エレベーターで8階に上がった。
お店はあまり吟味せずに、その時の感覚で適当に選ぶのが、私の習い。(とにかく邪魔くさがりなのだ。)
昨日は、“京風スパゲッティー・先斗入り”というお店の名前にちょっと惹かれて入った。
お店の灯りは、何となく京風って感じ?
昨日は、料理の写真は撮らなかった。
ランチを済ますと、私はJR環状線に乗って大阪城公園駅まで行き、そこから大阪城に向かった。
大阪城の外濠近くに着いたとき、あまり大きくはない白い鳥が、盛んに空(くう)を舞っているのが見えた。
お濠の柵の上には、白い鳥が並んで止まっている。
近づいて行くと、女性が餌をこの鳥に与えていらっしゃるのが、見えてきた。
この女性によると、この鳥は「ユリカモメ」。
北に向かって旅立つ前に、ここで羽を休めているのだそうだ。
ユリカモメは、全体が白く、頭の一部と後ろの羽だけが灰黒色、嘴と足が鮮やかな朱色であることを、昨日初めて
知った。
見ているだけでは可愛いが、結構獰猛なところもあると、女性が教えてくださった。
ちょっとシツコイけれど、ユリカモメの写真をあと2枚。
(私には、ユリカモメを見るのは珍しかったので。)
盛んに餌を食べているユリカモメの傍で、餌をもらえないカラスが、昨日は大人しく地面をつついていた。
お濠ではユリカモメのほかに、カモなども盛んに泳いでいた。
お濠の傍ではボケが花をもう開き始め、その辺りから見えるビジネスパークの特徴のあるビルの前には、数本
の木が、まるでビルに貼りついたかのように、面白い影を作って並んで立っていた。
大きな櫓門(名前を忘れてしまった…)をくぐると、大阪城がその雄姿(?)を現わした。
私に感動を与えたもう一人の女性は、羽田空港の清掃を担当する≪新津(にいつ)春子さん≫(44歳)。
新津春子さんのことは、最近のNHK番組・「プロフェッショナル 仕事の流儀 “清掃のスペシャリスト”」で、初めて知った。
彼女は、≪世界一清潔な空港≫として、ここ2年間グランプリに輝いている『羽田空港』で、300人の清掃スタッフを束ねるリー
ダーの一人なのだそうだ。
まず私は、早朝に出勤される彼女の姿を見て、驚いた。
駅に着かれた彼女は、横のエスカレーターには目もくれず、50段以上の階段を、笑顔で勢いよく上がって行かれたのだ。
そして職場に着くと、(カメラを気にして恥ずかしそうにしながら)ダンベルで体操を始められた。
(彼女は、夜と昼にも、同じように筋トレをされているそうだ。)
「仕事をちゃんとするためには、体力が無くっちゃ!」ですって。
ここでもう、ナマケモノの私は、「参りました!」って感じ‥。
彼女は若いころ、「全国ビルクリーニング技能競技会」で、最年少での≪グランプリ≫を獲得された。
そして今や、世界一清潔な羽田空港の、清掃スタッフの中心人物でもあるのだ。
しかし、彼女がこれまでになられるのには、大きな苦難があった。
彼女の父は、中国残留孤児だった。
その父が中国人の母と結婚して生まれたのが、彼女だ。
中国での生活が苦しかった彼女の一家は、彼女が17歳のとき、仕事を求めて日本に来られる。
(17歳の新津さん)
しかし日本に来ても、日本語のできない両親には仕事が見つからず、生活は苦しいまま。
その上彼女は、中国では周囲から「日本に帰れ!」と言われ、日本に来たら来たで、友だちから「中国に帰れ!」と罵られた。
彼女は、自分の存在の意味が分からず、苦しく辛かったと述懐される。
それでも彼女は、家族の生活を支えるために、初めはアルバイトで、夜間の清掃の仕事を始められる。
そんな中で、次第に彼女は、清掃の仕事に面白さを感じられるようになる。
頭も良く努力家でもあった彼女は、清掃に関する知識も技術も、メキメキと上達していかれる。
それが、「ビルクリーニング技能競技会」での≪グランプリ≫にもつながったのだ。
でもこの番組を見て、私が素晴らしいと思ったのは、彼女が技術的に優れた清掃のエキスパートであることだけではない。
彼女が、空港に来るお客さんみんなが、健康で気持ち良く、幸せな気持ちになれることを願って、仕事をされていることだ。
私は、汚れに対する時の、彼女の眼の真剣さと輝きに、心を奪われた。
月に何度かある深夜勤務のとき。
彼女は、日中人がいるとできない所の掃除を、徹底的にされる。
汚れが落ちにくい所は、どんな薬剤・どんな道具を使ってやれば綺麗になるか、徹底的に考え、試みられる。
そして勤務終了の朝までに、なんとか汚れを落とすことができたときの、彼女の清々しい笑顔が、とってもステキだ。
彼女は言われる。
「清掃には技術はもちろん必要だけど、そこに≪優しさ≫がなければダメ!」
「≪心を込める≫ことが大切!」
そして私が、彼女を一番素晴らしいと思ったのは、彼女の下の言葉に代表される、彼女の生きる姿勢だ。
彼女は言われる。
『誰がここを綺麗にしたかは問題じゃない。』
『皆さんが綺麗な所で幸せな気持ちになってもらえることが、何よりも大切!』
日本に来ても差別で苦しみ、ある時は、周囲も自分も呪われたことのある彼女。
その彼女が、仕事を通じて獲得された、人への優しさに満ちた、無欲の心!
私は、彼女の姿に心から感動し、彼女を深く尊敬した。
夜勤を終えて職場をあとにされる彼女に、番組制作の方が、「これから家に帰られて睡眠ですか?」と尋ねた。
それに対して、彼女は笑顔で答えられた。
「家の掃除がちょっとできてないから、1時間くらい掃除して、それから寝ます。」と。
あ~あ、マイッタ、マイッタ!!
何にも仕事をしていなくても、家の掃除がまともにできない、この私‥。
彼女の爪の垢でも煎じて飲まなければいけないナと思いつつ、私のズボラと、彼女の素晴らしさに感動する心とは、また別の次元
のことだとすぐに思い直して、自分を甘やかす私でした‥。
今日も彼女は、みんなが幸せな気持ちになることを願って、無欲で掃除を続けられていることだろう。
そんな彼女がこれからも幸せであることを、いや、これからもっともっと幸せになられることを、私は祈ってやまない。
比較的最近見た2つのテレビ番組で、私は、2人の女性の生き様(死に様)に、強い衝撃と感動を受けた。
一人目は、阪神大震災から東日本大震災にかけて、自分の全生活を被災者支援に捧げ続け、昨年秋に亡くなられた≪黒田裕子さん≫。
黒田裕子さんの活動ぶりは、私もそれまで何度か、テレビ画面で拝見してきていた。
彼女は、もとは関西の病院の看護師で、初めのうちは、仕事をしながら被災者の支援活動を精力的にされていた。
でも途中からはその仕事も辞めて、支援活動に、ご自分の全生活を捧げてこられた。
私はテレビ画面でその姿を拝見するたびに、「すごい人がおられるんだなあ!」と、ただただ感服するのみだった。
(仮設住宅を訪れ、被災者と語り合われる黒田さん)
その黒田さんが、ある時期から、テレビの画面で見ていても、ずいぶん痩せてこられているような気がして、心配していた。
そして、昨年の秋、私はテレビのニュースで、黒田さんの死去の報に接した。
“やっぱり、彼女は病気をおして活動を続けておられたんだ‥。そして、遂に命尽きられたんだ‥。”
私はそう思い、彼女の死を悼むとともに、彼女を失った被災者の悲しみと苦悩を思った。
その彼女の最期の姿が、1月末のNHKスペシャル≪傷ついた人々に寄り添って~黒田裕子・最期の日々≫で、明らかにされた。
人間の最期の姿を映像にすることは、普通は何か憚られる感じがするけれど、それは黒田さんの要望でもあったようだ。
被災者の死(なかんずく孤独死)と向き合い、人間の幸せな死を求めて活動してこられた彼女は、自分の死を通しても、死のあり
ようを訴えようとなさったのかも知れない。
彼女は、自分の命がもう幾ばくも無いことを悟ったとき、故郷の島根・出雲に帰りたいと言われる。
私は驚いた!
彼女が私と同じ出身県であることにも驚いたが、阪神を中心に活動されてきた彼女が、自分の死に場所を故郷に求められたこと
が、意外でもあったのだ。
主治医は、今まで自分のことは一切顧みないで活動してきた黒田さんの“最期の我が儘”を叶えてあげようと、決断される。
いよいよ病院をあとにすることが決まったあと、兵庫県の井戸知事が、病床の彼女のもとを訪れられた。
彼女は、(ある意味、活動をともにしてきた)井戸知事に、単なる別れだけではなく、自分の願いをしっかりと伝えられた。
「これからの震災に備えて、福祉避難所は、ひとくくりにしないで、いろんな人の症状に合わせてきめ細かいものにしてほしい!」
「本当に困っている人が、困ることのないように!」
「最後の一人まで見捨ててはいけない!みんな同じ人間なんだから。」‥と。
ほとんど肉のついていない、息も絶え絶えな体から、彼女は力強くこのように訴えられたのだ。
9月18日、黒田さんは、みんなに見送られて病院をあとにし、空港に向かわれる。
空港に向かう車の中から、痩せた手を高々と上げて、見送りの人たちに応えられる黒田さんの姿は、痛ましいというより、神々しく
さえあった。
彼女は、ふるさとに近い「島根大学医学部付属病院」に、無事到着される。
そこでは、妹さんご夫婦などが、彼女を待ち受けられていた。
不思議なことに、ふるさとに着いたときから、彼女の激しい痛みは、嘘のように和らいだそうだ。
彼女は、妹さんが用意された、(それまでの病院食ではない)“ふるさとの料理”を、美味しそうに食べられた。
「これ、鯛めし。」 「最後の晩餐だね。」などと言いながら。
そして、体調を見計らって、彼女は病院の屋上にも、連れて行ってもらわれる。
屋上からふるさとの景色を眺められたときの、彼女の幸せそうな表情が忘れられない。
ふるさとで幸せな最期のときを過ごされた彼女は、24日午前0時に、静かに旅立たれた。(享年、73歳)
最後に、彼女が通われていた気仙沼の仮設住宅につくられた祭壇と、彼女が被災者の女性に送られた葉書を載せます。
“人生の旅の荷物は、夢ひとつ”(黒田裕子)
今日は、神戸市立博物館で行われている≪チューリッヒ美術館展≫に、小・中学時代の友だち3人で行った。
11時過ぎにJR三宮駅に着き、フラワーロードから東遊園地を経て、先ずはランチをとる『BANK』に向かった。
下は、フラワーロードでちょっと目を引いたビルと、東遊園地にある“阪神・淡路大震災のモニュメント”のプレート。
(震災のモニュメントが東遊園地にあることは知っていたが、迂闊にも、今日までそれが遊園地のどこにあるか知らなかった。)
私たちが『BANK』に着いたのは、開店時間の11時半ちょっと前だった。
『BANK』は、以前は銀行だった建物をそのまま利用した、パブレストランだ。
中では、レトロなシャンデリアが高い天井から吊るされ、店の一隅には、ちょっと洒落た空間も設けられている。
私たちはここで3人とも、ランチメニューの中からオムライス(サラダ・コーヒー付き)を注文した。
代金1080円なり。 とても美味しかった。
ランチの後、私たちは神戸市立博物館へと向かった。
博物館の前には、≪チューリッヒ美術館展≫の開催を知らせる、3枚の大きな絵が掲げられていた。
(上は、アンリ・ルソーとゴッホの絵。下の左は、クレーの抽象画。)
今回の展覧会には、『巨匠 いっき見! 』という、面白い宣伝文句がつけられている。
その宣伝文句が示すとおり、展覧会には、印象派から現代までの有名な画家&彫刻家の作品が、ズラリと並んでいた。
一人(又は少数)の画家について深く知るという点では、物足らないものはあるかも知れないが、これはこれで、なかなか面白い展
覧会だった。
よく知っている画家の絵でも、初めて見るものも多かったし、好きだなあ!と思う絵・彫刻も、何点かあった。
私たちはそれぞれに展覧会を楽しんだ。
展覧会のあと私たちは、今ちょうど“春節”で賑わっている『南京町』に行ってみることにした。
~南京町入り口に建つ“長安門”と、南京町の案内図~
(次からは、南京町のお店や街の風景を、順不同で載せます。)
獅子舞の獅子
南京町でも人気のある『老祥記』という“豚まん”のお店の前では、沢山の人が行列をつくっていた。
友だち2人が行列に並んで、私の分の豚まん(6個入り)も買ってくれた。
私はその間そこらをブラついては、写真を撮っていた。(何と言うイイカゲンさ!)
(買ってもらった豚まん‥家に帰ってから写真に撮った。)
豚まんを手に入れた私たちは、そのままJR元町駅まで歩き、そこから電車に乗って帰途についた。
小・中学時代を共にした友だち3人‥お互いに何もかも知っている、遠慮の要らない仲だ。
今日一日、往復の電車の中でも、道を歩きながらでも、ランチをとりながらでも、(いけない事だけれど、たまには絵を見ながらで
も) 私たちは喋りに喋った。
お陰で、思いきりストレスを発散できて、とっても楽しい一日になった。
Mさんとは、若い頃わずかな期間だったが一緒に仕事をした。
そのMさんから、昨年に続いて、彼女が出品されている“大阪工芸展”の案内の葉書が、送られてきた。
大阪工芸展には私は去年初めて行き、Mさんの作品(人形)を観せていただいて、「彼女らしいセンスのある素敵な作品だなあ!」
と思った。
なので、今年も工芸展の開催が決まったら、案内状を送ってもらうように頼んであった。
それが、先日届いたのだ。
私は早速Mさんに電話して相談した結果、今年は彼女と一緒に工芸展に行くことになった。
工芸展鑑賞の後、食事を共にしながらお喋りを楽しむことも、予定に入れて…。
それが昨日実現した。
私たちは直接会場で落ち合った。
大阪工芸展の会場は、去年と同じ、“ATC・ITM棟10階”の「 デザインギャラリー」だ。
会場には、Mさん(たち)の人形以外にも、様々なジャンルの作品が、展示されている。
ステキだと思う作品がたくさんあって、私は写真を撮りたかったが、残念ながら撮影は禁止されていた。
ただ、Mさんの作品の撮影は、本人が同意されているので問題なかった。
Mさんの今年の作品は、去年の“凛としたチマ・チョゴリの女性の像”とはうって変わって、“3人の子どもの群像”だった。
『広場の風景ー見入る』と題された作品は、(Mさんの説明に依ると)広場で行われていた大道芸を、それまでの遊びを止めて、
じっと見入っている少年と少女の姿を、あらわしたものだった。
大道芸に見入る少年と少女の、邪気のない真剣なまなざしと姿勢が、とっても可愛い!
私は角度を変えて横からも撮ってみたが、少年たちの表情をとらえるにはもっと下から撮ればよかったのでは、と今では思う。
本当はダメなんだけれど、同じ人形部門で、私がとっても好きだった作品を、人がいないのを見計らって撮ってしまった。
(ごめんなさい!)
展覧会場を後にした私たちは、食事をとるべく、10階から下までエレベーターで降りた。
展覧会場のある“ATC・ITM棟”は、カラフルで独特な構造をした建物だ。
エレベーターに乗る前・エレベーターから降りた後、その姿を撮ってみた。
階下に降りた私たちは、韓国料理のお店で昼食をとった。
食事をしながら&した後の長いお喋り(お喋りの主はほとんどが私…。Mさん、ごめんなさい!)の後、私たちは別れた。
時間はもう4時前になっていて、Mさんの帰りの予定時間は、とっくに過ぎていた。
Mさんと別れた私は、建物を出て、しばらく周りをうろついた。
建物を出ると、眼前に(広くはないけれど)海が広がっている。
岸にはサンフラワー号が、去年と同じように、ドカッとその巨体を横たえていた。
海の向こうでは、工場の煙突が、勢いよく煙を空に噴き出している。
建物の周りには、建物をとり囲むように、ヤシの木が植えられている。
ヤシの木の樹形には、なぜか心惹かれるものがある。
下の写真は、逆光を受けて輝くヤシの木と、建物に映った“それ”とを撮ったもの。
いよいよ帰ることにして、ニュートラム「トレードセンター駅」に向かった。
その途中で、壁に掛けられた面白いオブジェが目に入った。
(たぶん名のある方が創られたものだと思うが、説明書きを読む時間がなかったので、そのまま素通りしてしまった。)
昨日は、ホントに楽しい一日だった。
Mさんの作品をはじめ、素晴らしい工芸の世界を、存分に楽しませていただいた。
そして、Mさんとの忌憚のないお喋り!
建物の前に広がる海の情景を楽しむこともできた。
Mさん、ホントにありがとう! そして、来年もヨロシク!
≪2月10日のこと≫
私は食糧の買い出しには、専ら、我がマンション1階にある小規模なスーパーを使っている。
ちょっと足を伸ばせば、食品の種類も多くお値段も安いお店があるのに‥と、友人に言われるが、ズボラな私にはそれができない。
でも10日の日は、下のスーパーには無い品物が必要になって、仕方なくちょっと遠くのスーパーに出掛けた。
そのスーパーは、(下のスーパーと違って)買ったものを自分で詰めなければならない。
私にとっては少々邪魔くさいその作業を終えて、お店を出た。
荷物を下げて信号を渡ったところで、私はフッと感じた。 「何か手元が軽いような…」
手元を見ると、買った品物はぶら下げているものの、財布や鍵を入れた手提げ袋が無い!
私はギョッとした。
財布には、現金の他に、デパートなどのカードが一杯入っている。
それに、鍵が無ければ、部屋に入ることができない! (これが一番困る(>_<))
もし手提げ袋が無くなっていればどうしたらいいか!?
頭の中で思案を巡らすも、妙案が出てくるわけもない。
私はただただ、親切な方が手提げ袋を見つけて届けてくださっていることを祈って、スーパーへとって返した。
スーパーの入り口を入るとすぐ、私の手提げ袋がカウンターの上にチョコンと置かれているのが目に入った。
ああ、ヨカッタ!!
お客さんの一人が、客がいないのに手提げ袋だけが置かれているのを不審に思って、お店の人に届けてくださっていたのだ。
私は、心からその方に感謝した。
しばらくして、その顛末を友だちに話したあと、私は付け加えた。
「近所に買い物に行くくらいやったら、玄関の鍵を掛けんと行ったらよかった、それやったら、部屋にだけは入れるから…」と。
私が友だちから強く一喝されたのは、言うまでもない。
そこで私は、買ってから長らく使っていなかった肩に斜め掛けできるバッグを、買い物の時は使用することにしたのでありました。
≪11日のこと≫
この日は、若い頃の仕事仲間が集まって年2回行っている食事会の日だった。
今回は私が幹事だったが、いい食事場所が見つからなくて申し訳なかった。
それでも、みんなが集まると、食べるのはそこそこで、お喋りに花が咲く。
この日も、なんとも楽しい一日になった。
この日の料理は私が普段よく食べているものだったこともあり、料理の写真は撮らなかった。
その代わり、Nさんがステキな和服姿で来られたので、それを撮らせていただいた。
(ご本人の了解をもらって、写真を載せさせていただきます。)
(帯は、お母様から譲り受けられたものだとか)
≪12日のこと≫
この日は、何年か振りに、難波にある“浪速スポーツセンター”に踊りに行った。
浪速スポーツセンターには、地下にスケートリンクがある。
行きに見たときは、まだ時間が早いせいか、滑っている人は多くなかった。
ダンス会場になる第2体育館も、立派で広いスペースなのに、この日は人が少なくガラガラだった。
お陰で伸び伸び踊ることはできたけれど、ちょっと寂しかったかな…。
帰りにスケートリンクを覗くと、滑る人が増えていて、チビッ子たちが並んでレッスンを受けていた。
なんか心がホッコリした。
冬になってベランダから取り入れた、ハイビスカスの鉢植え。
外では開かなかった蕾が開いて、私を喜ばせてくれたことは、だいぶ前のブログに(写真と共に)載せた。
その後はもう蕾は無く、今年の夏(春?)まで、ハイビスカスの花を見ることはないと思っていた。
ところが、いつだったか忘れてしまったが、取り入れた後のハイビスカスに、新たに蕾が付いているのを見つけた。
蕾は2つ。
私はハイビスカスの生命力の強さに感動するとともに、開花を楽しみにしていた。
なのに…最近鉢植えの世話がイイカゲンになっている私は、しばらくハイビスカスをそのままうっちゃってしまった。
その間に、ハイビスカスの蕾にも新芽にも、黒い小さな油虫がいっぱい付いた。
私は、鉢植えを外に出し、蕾にも新芽にも、たっぷり殺虫剤を振りかけた。
大量の殺虫剤は、油虫をやっつけることはできたが、同時に蕾も新芽もやられてしまい、蕾は茶色に変色した。
せっかく蕾を付けてくれたのに、蕾はすっかり枯れてしまった。
私はハイビスカスに自分の不精を詫びると同時に、ハイビスカスの花の開花を完全に諦めた。
ところが数日前、水やりのときにフト蕾を見ると、傷んだ蕾の中に、かすかに赤い色が見えた。
私はビックリした。 これは、もしかして!
そして日が経つにつれて、蕾の中の赤い部分が、だんだん大きくなっていった。
傷ついていかにも痛々しい感じだけれど、もしかしたらこの蕾、花を開くかも知れない。
そして今日、その期待が現実となった。
花びらの一部は裂け、無残な姿ではあるけれど、花は懸命に開いていた。
私は改めて自分の薄情さを詫びると同時に、ハイビスカスの生命力の素晴らしさに感動した。
そして、ハイビスカスがとても愛しく感じられ、ハイビスカスに心から感謝した。
先日の「日曜美術館」で、画面に映った下の焼き物を見たとき、私は理屈抜きで、その焼き物に心惹かれた。
粉引茶碗 『雪の曙』
作ったのは、川喜田半泥子(1878~1963)。
彼は、名家の跡取りとして生まれ、三重銀行の頭取を務めた実業家でもある。
本名は、「九太夫(きゅうだゆう)」。
「半泥子」という名前は、作陶するに当たって、禅の僧侶からもらった名前だそうだ。
「半ば泥みて、半ば泥まず」で、『半泥子』……とっても素敵な名前だ。
彼は銀行の頭取の仕事をこなしながら、余暇を使って作陶に熱中した。
彼が生涯に作った作品は、3万とも5万とも言われるが、その中の一点たりとも売らなかったそうだ。
彼は、“究極の趣味人”“偉大なる素人”だった。
次に、番組で紹介された半泥子の作品を、3点。
粉引き茶碗 『たつた川』 黒織部茶碗 『富貴』
志野茶碗 『不動』
上の『たつた川』は、実際にもみじを貼りつけて作ったのだそうだ。
彼は作陶に当たって、次の2つの作品から、大きな影響を受けた。
一つは、天下一の茶人・古田織部に見出され、名品の誉れ高い、『破袋(やぶれぶくろ)』。
古田織部の像 桃山時代の古伊賀水指 『破袋』
半泥子は、『破袋』にいたく心を動かされ、それを深く研究して、『慾袋』なる作品を作った。
伊賀水指 『慾袋』
『慾袋』は、『破袋』によく似た作品だが、割れ目を漆で埋めて、その上に金で「青海波(せいがいは)」を描くなど、半
泥子の独創性が見られるという。
半泥子が心を動かされたもう一つは、朝鮮王朝時代の作品・『紅葉山』
井戸茶碗 『紅葉山』
半泥子は、朝鮮まで出掛けてその製法を研究し、持ち帰った現地の土を使って、下の作品・『渚』を作った。
井戸手茶碗 『渚』
それ以外の彼の作品。
志野茶碗 『赤不動』 井戸手茶碗 『さみだれ』
71歳の半泥子の作品、『残月』。
大侘び茶碗 『残月』
そして、半泥子最晩年の作品、『これは これは』。
刷毛目茶碗 『これは これは』
彼は、言われる。
…と。
私は、半泥子のこの考えに深い共感を覚える。
そして今回、番組で紹介された半泥子のどの作品も、とても好きだ。
なんとか実物が見たいものだと思っていたら、3月17日から「あべのハルカス美術館」で展覧会が行われるという。
私は今から、その展覧会を楽しみにしている。
植物園の入り口のほぼ真反対にある花壇。(昨日は花の盛りを過ぎて、ちょっと寂しかった。)
花壇の傍の梅林の梅も、まだまだ満開には程遠かった。
入り口付近まで戻って、再び、枯れた蓮が池の中でつくる、造形の妙を楽しむ。
最初の写真は、枯れた蓮の間を泳いでいる鳥を撮ろうとしたのだが、鳥の姿をとらえることはできなかった。
水面に落ちた“蓮の実”
出口付近に、黄色の「ラッパスイセン」が少し植えられ、花を開いていた。
私はラッパスイセンを撮ると、植物園を後にし、地下鉄への道を急いだ。
地下鉄長居駅を出たのが、ちょうど2時、植物園を出たのは4時過ぎだったので、2時間以上歩いたことになる。
水分不足と空腹も相まって、植物園を後にした頃には、もうヘトヘトだった。
早く天王寺まで戻って、いつもの『百樂』で、“春巻き”と“ギョーザ”を食べなくっちゃ!
公園入り口近くに辿りついて「友情の像」を見ると、行きの時より更に多くの鳩が、少女に止まっていた。
ツバキ園を出てしばらく行くと、紅梅と白梅が、少しだけ花を開いていた。
長居植物園の目印のヤシの木が、いつものように並んで立っている。
ヤシのてっぺんの葉っぱの力強さに惹かれて、1本だけでも撮ってみた。
「ジュウガツザクラ」と名札のついた、可憐な感じの桜が咲いていた。
蠟梅は盛りを過ぎてしまったのか、僅かしか花を付けていなかった。
樹に付けられている名札で、初めて「カヤの木」を知った。
カヤの木の下に立って上を見上げると、重なり合ったカヤの葉っぱが、図案のようで面白かった。
『枝垂れ何とか』という木の、葉っぱを落とした樹形も、面白く感じて撮ってみた。
ボタン園に到着。
剪定された牡丹の枝から赤い新芽が顔を出していて、植物の持つ生命力を感じる。
大池のほとりに出る。
大池の遥か向こうを泳ぐカモと、カモがつくる水脈をアップで撮ってみたが、やっぱり遠すぎた。
近くの岸をサギが1羽、歩いたり羽ばたいたりしていたが、残念ながら、羽ばたく姿は撮れなかった。
大池の周りの水仙は、だいぶ花を開いていた。