(ずい分前のことになるけれど)
6月30日の「NHK映像ファイル・あの人に会いたい」では、≪石牟礼道子(イシムレ・ミチコ)≫さんが、取り上げられていた。
石牟礼さんは、昭和2年(1927年)の生まれ、人生のほとんどを水俣とその周辺で過ごされ、今年(2018年)2月10日、90歳で
亡くなられた。
「魚が湧く」と言われた不知火の豊かな海は、幼い頃の石牟礼さんにとっても、大好きな故郷の海であった。
けれど、1953年(昭28年)から59年(昭34年)にかけて、<チッソ水俣工場>が流し続けた工場廃液が、この豊かな海を一変
させた。
工場廃水に含まれた≪有機水銀≫が、水俣湾の魚や貝などを汚染、その魚や貝などを食べた住民たちに、様々な精神疾患を
発症させ、重症化した人たちを死に至らしめるという、大きな悲劇を引き起こしたのだ。
昭和34年、訪れた病院で水俣病患者の姿を目にされたときから、石牟礼さんの人生は一変する。
『この人(水俣病患者)の かなしげな 山羊のような 魚のような瞳と 流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この
日から全部、私の中に移り住んだ。』
彼女は、自分の生活の全てをかけ全身全霊をもって、水俣病患者に向かい合い、寄り添われる。
その中から、名著・『苦界浄土(クガイジョウド)』が生まれた。
彼女がとりわけ目を向けられたのは、水俣病患者の母親から生まれた<胎児性水俣病>の子どもたちであった。
彼らは自身が魚や貝を食べていないにも拘わらず、母親のお腹の中にいる時、その胎盤を通じて有機水銀を身体に取り込み、
水俣病を発症したのだった。
彼らは、生まれながらにして水俣病の十字架を背負い、心身ともに耐えがたい激しい苦痛を強いられたのだ。
(それは、胎児性水俣病の子どもをもつ親や祖父・祖母にも、救いようのない耐えがたい苦しみをもたらした。)
しかもこの頃、チッソの会社は、水俣病の原因が自身の会社の廃水に含まれる有機水銀であることを認めず、世間にも、まだ
事の真実が明らかになっていなかったのだ。
水俣病患者とその家族は、病魔の苦しみと世間の差別という二重の苦しみの中で、明日の見えない暮らしを余儀なくされていた。
そんな中 石牟礼さんは、自身も苦しみながら、患者と家族の思いを何とか言葉に紡いでいかれたのだ。
後年は自身も病におかされながら、一生を水俣病患者の救済に捧げられた石牟礼さん。
その彼女が番組の最後で述べられた下の言葉は、今の私たちの心に、生々しく突き刺さってくるような気がする。
恥ずかしながら私は、水俣病の問題が起こって社会問題になり、石牟礼さんが「苦界浄土」を著された頃、水俣問題にあまり
関心を持っていなかった。
「苦界浄土」も、結局読まないまま今に至っている。
「あの人に会いたい」で石牟礼さんと水俣病のことを思い出したとき、私は自身のイイカゲンさを本当に恥ずかしく思った。
なので自身の反省も込めて、石牟礼さんと水俣病のことをブログに書こうと思った。
けれど、なかなか時間が無くて書けず、今日やっと取り掛かった。
石牟礼さんの最後の言葉にあるように、水俣病は、「地球全体がおかしくなったと言われるような時代」の、(良くない意味で)そ
の≪先駆け≫となった事件だったのだ。
高度経済成長に向かってひた走っていた当時、チッソ水俣工場は有機水銀を垂れ流しにして、美しい海を汚し、死の海へと変貌
させた。
のみならず、それまでは水俣(不知火)の海の幸を享受して生きてきた人々を、言葉では言い尽くせぬ苦しみのどん底に突き落
とした。
それなのに、(前にも書いたけれど、)チッソの会社はその事実を一切認めず、白を切りとおそうとした。
そのせいで、水俣の海の汚染と人々の苦しみは、長く長く続くことになってしまったのだった。
水俣病は、経済発展という甘い言葉で人々の目をくらまし、結果的に甚大な被害を人々と地球にもたらした、数々の公害問題
の原点だ。
そして私たちは、そういう負の連鎖を、今でも断ち切れてはいないと思う。
その意味で、石牟礼さんの言葉は、今の私たちにも、鋭く問題を投げかけている。
石牟礼さんの番組と前後して、今の水俣の海を取り上げた、「小さな旅」が放映された。
チッソの有機水銀で汚され傷つけられた<水俣の海と人々の命&暮らし>は、その後の多くの人々の努力によって、ずい分
回復している。
その水俣の海を訪ねたのが、今回の番組だ。
番組では、甦った今の美しい海と、その海を守りながら働く人々の姿をとらえていた。
水俣の海で働きながら、子どもたちの世代に、水俣の伝統行事を繋いでいこうと努力する方もおられる。
水俣で復活した≪もやい船≫の姿。
復活した水俣の海の、美しい夕景。
今回の「小さな旅 ~ “もやい”の海よ ふたたび」は、甦った美しい水俣の海と、そこで生き生きと働く人々の姿をとらえていて、
心和む番組だった。
しかし水俣には、今なお不自由な身体のまま病院での闘病生活を余儀なくされている、胎児性水俣病の患者の方々がおられる
ことを、忘れてはいけないとも思った。