1923年3月、東京美術学校を卒業した佐伯祐三は、すぐに念願のパリ行きに向けて準備に取り掛かる。
彼にはその時すでに、恋愛によって結ばれた妻・米子と、愛娘・彌智子がいた。
佐伯はその妻と娘を伴ってパリに渡るつもりだったが、出発の直前関東大震災が起こり(1923年=大正12年)出発を
一時延期したが、同年11月末には妻子を伴って神戸港からパリに向かった。
展覧会では、「自画像」の次に、彼がパリに出発する前と病で一時帰国した時、日本(大阪と東京)で描いた絵画を紹介
していた。
<渡欧までの作品>
1923年10月、渡欧の挨拶のため、大阪四条畷市の伯父を訪ねたときに付近を描いたもの
<1926年病で已む無く一時帰国したのち、再渡仏する(1927年)までの間に、主に暮らしていた東京で描いた絵>
~上の2枚、共に1926年頃描かれた「下落合風景」~
「白い壁の家(下落合風景)」 1926年頃
「ガード風景」 1926ー27年
「下落合風景」 1926年頃
「目白の風景」 1926年頃
「下落合風景」 1926年頃
「雪景色」 1927年
病のため一時帰国を余儀なくされた佐伯だが、再度パリ街角の絵を描きたいという思い止めがたく、1927年再渡仏する。
再渡仏に当たって、佐伯の出生の地・中津「光徳寺」で写された、記念写真。
前列左から佐伯祐三、一人おいて娘・彌智子、妻・米子、母タキ。後列左から3人目が兄・祐正
(この時父はすでに他界していた。)
下は、再渡仏の前に描かれた、妻・米子の像。
米子像 1927年
※米子は銀座の裕福な貿易商の娘とてし生まれたが、佐伯と共に2度渡仏し、2度目の渡仏では、夫・佐伯の病状悪化
に加えて、同じく結核を発症した娘・彌智子の看病にも奔走した。
けれども結局、1928年には、二人ともを失うという耐えがたい不幸に見舞われた。
しかし米子は帰国後洋画家として活躍したという。
次に展覧会では、佐伯が描いた数少ない「静物画」も紹介されていた。
「ポスターとローソク立て」 1925年頃
(説明を見落としてしまった…。) 「人形」 1925年頃