のんスケの‥行き当たりバッタリ!

ぐうたら人生を送ってきた私が、この歳になって感じる、喜び、幸せ、感動、時に怒りなどを、自由に書いていきたいと思います。

≪佐伯祐三展≫ ②

2023-07-20 15:50:03 | 日記

1923年3月、東京美術学校を卒業した佐伯祐三は、すぐに念願のパリ行きに向けて準備に取り掛かる。

彼にはその時すでに、恋愛によって結ばれた妻・米子と、愛娘・彌智子がいた。

佐伯はその妻と娘を伴ってパリに渡るつもりだったが、出発の直前関東大震災が起こり(1923年=大正12年)出発を

一時延期したが、同年11月末には妻子を伴って神戸港からパリに向かった。

 

展覧会では、「自画像」の次に、彼がパリに出発する前と病で一時帰国した時、日本(大阪と東京)で描いた絵画を紹介

していた。

        

 

    

 

 

 

<渡欧までの作品>

    

    1923年10月、渡欧の挨拶のため、大阪四条畷市の伯父を訪ねたときに付近を描いたもの

 

 

 

 

 

<1926年病で已む無く一時帰国したのち、再渡仏する(1927年)までの間に、主に暮らしていた東京で描いた絵>

   

 

 

                       

                 ~上の2枚、共に1926年頃描かれた「下落合風景」~

 

 

 

   

                  「白い壁の家(下落合風景)」 1926年頃

 

 

 

   

                           「ガード風景」 1926ー27年

 

 

 

   

                        「下落合風景」 1926年頃

 

 

 

   

                        「目白の風景」 1926年頃

 

 

 

   

                         「下落合風景」 1926年頃

 

 

 

   

                              「雪景色」 1927年

 

 

 

 

病のため一時帰国を余儀なくされた佐伯だが、再度パリ街角の絵を描きたいという思い止めがたく、1927年再渡仏する。

再渡仏に当たって、佐伯の出生の地・中津「光徳寺」で写された、記念写真。

   

   前列左から佐伯祐三、一人おいて娘・彌智子、妻・米子、母タキ。後列左から3人目が兄・祐正

   (この時父はすでに他界していた。)

 

 

 

下は、再渡仏の前に描かれた、妻・米子の像。

       

                  米子像 1927年

 

※米子は銀座の裕福な貿易商の娘とてし生まれたが、佐伯と共に2度渡仏し、2度目の渡仏では、夫・佐伯の病状悪化

 に加えて、同じく結核を発症した娘・彌智子の看病にも奔走した。

 けれども結局、1928年には、二人ともを失うという耐えがたい不幸に見舞われた。

 しかし米子は帰国後洋画家として活躍したという。

 

 

 

次に展覧会では、佐伯が描いた数少ない「静物画」も紹介されていた。

   

                「ポスターとローソク立て」 1925年頃

 

 

 

              

        (説明を見落としてしまった…。)                          「人形」 1925年頃

 

 

 

 

 

 

 


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2 コメント

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佐伯祐三展 (じゅん)
2023-07-21 06:38:28
 佐伯祐三展の続きを楽しみにしていました。落ち着いた色合いの絵が多いですね。せっかくパリまで行ったのに、やはり病気には勝てませんね。気の毒です。もっと活躍できたはずなのに・・・・
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じゅんさんへ (のんスケ)
2023-07-21 11:09:23
 長く待っていただいたブログですが、作品の羅列に終わってしまってごめんなさい。
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