のんスケの‥行き当たりバッタリ!

ぐうたら人生を送ってきた私が、この歳になって感じる、喜び、幸せ、感動、時に怒りなどを、自由に書いていきたいと思います。

ふたたび…『 松本竣介 』

2018-11-23 14:12:33 | 日記

 先日の「日曜美術館」で、何年ぶりかで『松本竣介』が取り上げられた。

                    

 

 

 何年か前に松本竣介氏が取り上げられたときは、戦中、多くの画家が戦争に強力して(させられて)いく中で、彼だけが権力に

抗し、自分の求めるものを純粋に追求していった、その真摯な姿を追っていた。

 その番組は私の心を強く動かし、拙いブログも書いた。

 

 今回は、群馬県桐生市の「大川美術館」に<竣介のアトリエ>を再現して、彼の活動をもっと広い視点からみていこうというもの

だった。

                      

 

                 

                 再現された<竣介のアトリエ> (室内に佇むのは、竣介の次男・莞氏)

 

 

 竣介は、自分のアトリエに≪綜合工房≫と名付け、絵画だけに限らず様々な文化をそこから発信しようという意欲に満ちていた。

 その初めの活動は、竣介自身の編集による雑誌≪雑記帳≫の発行だった。

 そこには当時の名立たる文化人たち(佐藤春夫、萩原朔太郎、島木健作など)が投稿し、もちろん竣介自身も執筆した。

                    

 

                       

 

 

 

 しかし雑記帳は、資金不足のため14号で廃刊を余儀なくされる。

 そしてそこから、竣介の絵画制作が本格的に始まる。

 彼は意欲的に海外の画家たちの作品や資料を取り寄せ、そのなかでも、モディリアニの影響を強く受けたことが、アトリエに残さ

れた資料などからうかがえるとのことだった。

                  

 

 

                            

                                      (左がモディリアニ、右が竣介の絵)

 

 

 戦争に向かう状況下で外出が儘ならぬ状態のなか、竣介は写真などをさまざま集めて、そこからも絵のモチーフを貪欲に探して

いったらしい。

                   

 

 

              

 

                              

 

 

 

 また彼は、当時活躍していた日本人画家の、藤田嗣治や野田英夫の絵も研究していたとのこと。

 (上が野田英夫の絵、下が竣介の絵)

             

 

 

                         

 

                       

 

 

 

 それと私が感心したのは、彼が、カルトンやグラッシなどという西洋の古い技法を地道に学び、その技法の上に、現代の感覚を

取り入れて絵を描いていったということだった。

                

 

                      

 

 

 

 そして今回の番組の中で私が最も心を打たれたのは、父親としての彼の愛情の深さだった。

 竣介には「莞」と名付けた息子がいる。

 下は、幼い莞さんと竣介の写真。 父子のほのぼのとした愛情が伝わる、とっても素敵な写真だ、と思う。

                  

 

 

 竣介は、幼い莞さんが描く無邪気な絵にも心を惹かれ、その絵を下敷きにした絵を何枚も描いている。

              

 

                          

 

                            

 

                    

         

                   

 戦争が激しさを増し、20年3月10日の東京大空襲の後は、さすがの竣介も、妻子を田舎に疎開させるが、自身は東京に残って

絵を描き続ける。

 しかしその時にも、莞さんに宛てて、沢山の絵入りの手紙を送っている。

              

 

                            

                           その中の一枚。「オトーチャマヨリ」 「カンボーニ コノエガ ワカルダロウカ~」

 

 

 前回の番組では、あの時代にあって、戦争に協力する絵の制作をいっさい拒み続けた崇高な画家という面に注目して竣介を見

いたが(それは今でも本当に素晴らしいことだと思う!)、今回、愛情深い父親としての竣介を見られたことは、とっても幸せだっ

た。

 

 最後に、(上に挙げた以外の)私の好きな竣介の絵を載せて、ブログを閉じます。

                  

 

                       

 

 

                      

 

 

                     

                                       絶筆 「建物」

 

       (一番下の絶筆「建物」は、迫る死の床で描かれたものだが、大川美術館館長の田中淳氏は、竣介がもっと生きて

      いれば、更に新しい絵の展開(例えば抽象画とか)も考えられたのでは、と竣介の早過ぎる死を残念がっておられた。)

 

 

 

 

 

 

 

   

                             

  

 

 

                   

 

 

 

                    

               

 

 

            

 

 

 

 

          


“皇帝ダリア”のあと…

2018-11-19 16:27:30 | 日記

 中津公園からケヤキ並木を通って外の道に出た。

 ケヤキは半分くらい葉っぱを落とし、足元には落ち葉がいっぱい散り敷いている。

                     

 

 

                  

 

 

 

 木々の間から朝日が顔を見せた。

                        

 

                    

 

 

 

 マンションのお庭でドウダンツツジがまっ赤に染まっていた。(金網越しに撮らせていただいた。)

 右は、木々と青空。

                      

 

 

 

 ケヤキ並木の端っこにあるジュウガツザクラが、少しだけ花を付けていた。

            

 

                            

 

 

 

 市営住宅のお庭で、朝から一生懸命お花の手入れをされている方がおられた。

 近づいていくと、名まえは知らないけれど、ラジオ体操で見知った方だった。

 お花の話から老後のことまでアレコレ喋っていたら、結局30分くらい時間が経ってしまった。

 帰り際、丹精されてるお花を撮らせていただいた。

                   

 

                       

 

 

 

 最後に、帰り際の、フキの花、柿の実、そして(前より少し赤くなったかな?)ホウキグサ。

                    

 

                      

 

 

                  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           

                 


今年も “皇帝ダリア” が、咲きました ♪

2018-11-16 15:26:41 | 日記

 先日ご近所のIさんから、「公園の皇帝ダリアが咲いているよ。」と、電話があった。

 私はその翌朝、早速公園に出掛けた。

 皇帝ダリアは、高さ2メートル以上の枝の先端に、薄紫の可憐な花を開く。

 幹もそんなに太くはないノッポの皇帝ダリアが、ちゃんと花を咲かせるのは、そんなに簡単なことではない。

 しっかりした添え木をして、ずっと見守ってやることが必要だ。

 その役目を毎年Hさんが果たしてくださっている。

 特に今年は、台風21号の猛烈な風で、太い木々もなぎ倒されたくらいだから、皇帝ダリアが無事に花を咲かせてくれるかどうか

は、不安な状態だった。

 でも公園に着いた私の目は、小さいながらはっきりと、薄紫の花をとらえることができた。

 私は急いで皇帝ダリアに近づいて、その姿をカメラに収めた。

                 

 

                 

 

                   

 

                 

 

 

 

 皇帝ダリアの花を心ゆくまで眺めたあと、私は秋の公園をしばらくぶらついた。

 下は、そのときのスナップです。

                 

 

 

                   

 

 

 

           

 

                               

 

 

 

                  

 

 

                 

 

 

                 

 

 

                        

 

 

                   

 

 

                  

 

 

                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                          

 

 

              

 

     

                 

 


松本竣介の絵が問いかけるもの。

2018-11-16 12:06:54 | 日記

 ※このブログは実際は2012年に投稿したものですが、訳あってこのブログを探しているとき操作を間違えて、今日の投稿になっ

  てしまいました。元に戻す方法が分からないのでそのままにします。 お許しください)

 

 ずいぶん前になるけれど(8月5日)、教育テレビ“日曜美術館”で≪松本竣介≫を見て、強い共感と感動を覚えた。

 それ以来、彼の絵と生き方から私が受けた感動を、早く書きたいと思っていたけれど、なかなか果たせなかった。

                          

 

 松本竣介の絵は、それまでに2,3点は見たことがあるような気がするけれど、彼の全体像を知ったのは、その時が初めてだった。

 

 

 松本竣介は、1912年に生まれ、1948年に36歳の若さで逝った、夭折の画家だ。

 彼は13歳の時に、脳脊髄膜炎で聴覚を失い、その後16歳で、本格的に画家を志す。   

 その頃の彼の写真と、彼の言葉。

                     

 

                    “絵筆をかついで とぼとぼと 荒野のなかを さまよえば、 

                     初めて知った 野の中に 天に続いた道がある。

                     自分の心に 独りごと言いながら 私は天に続いた道を行く。”

 

 

 聴覚を失うという不幸に遭いながらも、若さと自負心に満ちた彼の表情と言葉が、初々しくすがすがしい!

 

 

 でも、彼が絵を描き始めてしばらくすると、黒雲垂れこめる戦争の時代が始まる。

 

 軍部は、画家たちにも、あからさまに戦争協力を押し付けてくる。

 雑誌“みづゑ”(昭和16年1月号)に掲載された、≪国防国家と美術~画家は何をなすべきか~≫の一部。

          「亡国的な絵が非常に多い。(中略) 

           時局にふさわしい思想感情を表現して、国家機能を担当しなければならぬ。

           言うことをきかなければ、絵の具とカンバスは配給を止めてしまう。」

 

 美術の世界にも戦争協力の風潮が広がり、名だたる画家たちも、こぞって戦争画を描きはじめる。

 

 

 そんな中で、松本竣介だけがただ一人、ハッキリした反対の姿勢を示す。

 雑誌“みづゑ(昭和16年4月号)”で、彼は臆することなく、次のように書いている。

         「今沈黙することは、賢い。けれど今、沈黙することが全てにおいて正しいのではないと信じる。

         一切の芸術家としての表現行為は、その作者の腹の底まで染み込んだ肉体化されたもののみに限り、

         それ以外は表現不可能という、厳然とした事実を度外視することはできないのである。 (後略)」

 

 これは明らかに、画家の内面を無視して戦争協力を押し付けてくる、軍部に対しての、キッパリした拒絶だ。

 

 そして彼は、その決意を示すかのように、「立てる像」なる自画像を、描く。(昭和17年)

                      

 

 

 彼のその決意と、描くことに対する姿勢は、昭和18年の“日記”でも、ハッキリと語られている。

          “真実と美のためには 一切のことに耐えよ。 仕事を守ることが その全てである。

           明確に描け。 詩情はその上に 自ら出てくるもので なければならぬ。” 

 

 

 彼がそのような思いで描き続けた、戦時下の東京や横浜の街。

                  ←「ニコライ堂」(昭16年)

 

                ←「市内風景」(昭16年)

 

                      ←「議事堂のある風景」(昭17年)

 

                      ←「Y市の橋」(昭18年)

 

 

                ←「ニコライ堂と聖橋」(昭16年)

 

 

 私は、上のどの絵も、とても好きだ!

 調和のとれた渋い色使いも、ステキだと思う。

 色調は暗いが、でも彼の色は、決して濁っていない。

 それに、彼のどの絵にも、ヒッソリとだが、人物が描かれている。

 それは、彼の、人間に対する深い思いを、表しているようにも思う‥。

 

 

 そして、敗戦。

 

 昭和20年10月の「芸術家の良心」で、戦争画を描いていた画家たちの、戦後の変容ぶりに対して、彼は痛烈な言葉を投げかけている。

    「僕なんかは、日本の芸術家はカメレオンの変種なのではないかと思われることが、なによりもさびしい。(云々)」と。

 

 そして、戦後の彼の作品は‥

                 ←「Y市の橋」(昭21年)

 

                  ←「焼跡風景」(昭21年ごろ)

 

                  ←「ニコライ堂」(昭22年ごろ)

 

 

 そして絶筆、「建物」(昭23年)

                    

 

 病の床で、見舞いに来た画家仲間にこの絵の評価を聞き、いい絵だと言われて満足そうに微笑んだあと、あまり時を置かずして、彼は36歳の短い

生涯を閉じたのだという。

 

 声高ではないけれど、しかし毅然として一歩も譲ることなく、自らの信じるところを表現した画家‥松本竣介。

 私たちは、あの戦争の時代に、彼のような画家をもったことを、誇りに思う。

 そして、心の自由を押しつぶそうという動きの見られる今の社会の中で、彼は私たちに、どのように生きるべきかを、問いかけているようにも思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     


歌声サークル合同発表会

2018-11-14 18:12:30 | 日記

 私たちの大淀福祉センターの歌声サークルを指導してくださっているのは、かつて高校の音楽の教師をなさっていたH先生だ。

 H先生はとてもタフな方で、私たちのサークルの他にも、8つくらいの歌声サークルの指導をなさっている。

 去る11月3日に、H先生の指導を受けているサークルの≪合同発表会≫が、阿倍野区民センターで行われた。

                   

 

 

                   

 

                   

 

                  

 

                  

 

                  

 

 

 参加したサークルには当然レベルの違いがあるけれど(私たちは中くらいかな?)、どのサークルも、多少緊張しながら精一

杯の歌声を披露することができた。

 中でも、1部の最後と2部(全体)の最後に行われた「全体合唱」は、とっても楽しかった。

 歌った曲は、「糸」・「この街で」・「マイウエイ」の3曲。

 一つの歌を全員で精一杯歌うことで、会場は大きな一体感に包まれた。

 

 ※ 下は、発表会から中津に帰ってきたときに目に止まった、街路樹の色づき ~ハナミズキとケヤキ~ 

                 

 

 

                       

 

 

                   

 

 

 

     序でに、マンション近くの花壇に植えられた、名まえの分からない花(ちょっとお化けみたい?)も。

               

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ごちそうさまでした♪ & 「花あるときは 花に酔ひ…」

2018-11-04 15:26:37 | 日記

 先日、かつて仕事場が一緒だったSさんから、一緒に食事したいという電話があった。

 Sさんは、私より15歳以上年下で、歳だけで言うと、私が大先輩ということになる。

 でも、私にはそんな感覚はなく、ましてや、彼女のお世話をした覚えは毛頭ない。

 むしろ、私の方が迷惑を掛けたのでは、と心配しているくらいだ。

 仕事場が変わってからは彼女と会うこともなく、つながりと言えば、年賀状のやり取りくらいだ。

 それなのに、ぜひ一緒に食事したいという、丁寧なお誘いだった。

 食事の場所も、私のところから近い場所に予約するから、とのこと。

 歳が違うせいもあってずっと会ってはいなかったけれど、当時の彼女の誠実な仕事ぶりは、今でも私の心に強く残っている。

 なので、会ってお喋りをしたいという気持ちは強かったけれど、そのお誘いぶりから、もしかして私の食事代も払われるつもりな

のでは?という懸念があった。

 そこで、食事代は絶対に割り勘で!ということを条件に、私はお誘いを受けることにした。

 

 食事場所は、『グランフロントOSAKA』の4棟あるビルのうちの≪インターコンチネンタルホテル≫のフランス料理のお店だった。 

 グランフロントOSAKAができたとき、その1棟がコンチネンタルホテルであることは知ってはいたけれど、私などお呼びではない

と思って、足を踏み入れたこともなかった。

 そのホテルのフランス料理のお店…私にはかなり敷居が高かったけれど、約束したのだから、その高い敷居も跳び越えねばなら

ぬ!(なんて、ちょっとオーバー且つふざけた言い方だけど)

 

 ともかく、約束の時間にホテル・20階のロビーに行くと、Sさんが、30年前とほとんど変わらない姿で待っていてくださった。

 ほとんど変わらないと書いたけれど、後ろから見たとき、片足をずい分痛そうに引きずるように歩いておられるのに気づいた。

 気づいたら黙っておられない性分の私…尋ねてみると、股関節を悪くされて、お医者さんからは人工関節を勧められているとの

こと。

 私が心配すると、彼女は妙にサバサバされて、「退職したら良くなるだろう」と楽観的だ。

 まあ、それもそうかと思って、でも、「くれぐれも気を付けて無理をしない(わけにもいかないんだろうけど)ようにネ!」とだけ言っ

て、その話は終わった。

 

 食事は、ランチとは言え、本格的なフランス料理のフルコースだった。 

 料理が運ばれるたびに、ウエイターさんが料理の材料などの説明をされるけれど、ちょっと舞い上がり気味の私の頭では、ほと

んど理解できなかった。

 それはともかく、運ばれてくる料理は、どれもこれも、とても美しく盛り付けされ、もちろんとても美味しかった。

 私は写真に撮ろうかと一瞬考えたが、ゴソゴソしてお皿でもひっくり返したらいけないと、思い止まった。

 (このブログを書くんだったらヤッパリ撮っておけばよかったのに、と今になって思うけれど…。)

 

 食事をしながらの会話の中でも、彼女は当時を振り返って、自分は先輩に恵まれてラッキーだったと、しきりに繰り返される。

 私は、そんなことないよ!と何度も言ったけれど、それが彼女の心底からの思いなんであれば、それはそれでありがたく受け取

っておこうと思い直した。

 それに、彼女が当時の先輩と言われるとき、それは私だけでなく、私より年上または同年くらいの何人かの方も含まれている。

 けれど、残念なことに、その方々はいずれも、割と早くに旅立たれたのだ。

 だから当時を振り返って懐かしく思われたとき、残っているのが私だけだったということもあるのだろう。

 それにしても、若いとき、私のような何でもない者も含めて、年上の人たちをこのように尊敬の眼で見られるって、やっぱり彼女は、

とても謙虚で誠実で素直なんだなあ!と、つくづく思う。

 そして、私の若いときには、そんな謙虚さも素直さも皆目無かったことを、彼女によっては私は気づき、少しだけ反省した。

 

 美味しい食事と楽しいお喋りの時間は、アッという間に過ぎた。

 帰り、私の懇願?にも拘わらず、彼女は頑として、食事代を取ってはくださらなかった。

 私は諦めて、彼女の厚意に心から感謝し、ご馳走になることにした。

 Sさん、本当にごちそうさまでした♪

 そして、あたたかい優しい心も、一緒にいただきました。 本当にありがとうございました!

 

 彼女と別れたあと、私は、コンチネンタルホテルとその横のタワーマンションの間に造られたお庭を通って、家に帰った。

 そのお庭から撮ったコンチネンタルホテル。(外観は何ということのない高層ビルだけれど)

                        

 

 

 お庭のスナップ写真を、ちょっとだけ。

                 

 

                 

 

 

                     

                                   もみじはまだ緑

 

                    

                              大好きな碑文 榊莫山氏の書

                       「花アルトキハ 花ニ酔ヒ  風アルトキハ 風ニ酔フ」

 

 

 帰り道で、葉っぱを落とした街路樹の樹形が面白くて、撮った。

                       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


≪西条柿≫の開封日

2018-11-01 22:57:26 | 日記

 ずい分前のことになるけれど、先月の22日に、故郷のM姉から西条柿(サイジョウガキ)が送られてきた。

 西条柿は渋柿で、普通、つるし柿にされることが多いと思う。

 でも私の故郷では、干すのではなく、いろんな方法で渋を抜いて食べることが多い。

 今はドライアイスで渋を抜くことが多く、私に送られてきた西条柿も、袋の中にドライアイスと一緒に入れられ、頑丈な封をして

送られてきた。

 送られてきたときは、まだ完全に渋が抜けていないので、袋の上には、下のような紙が入っていた。

                       

 

 

 ということで、大好きな西条柿を食べられるのは、しばらくお預けとなる。

 私は26日が来るのを心待ちにして暮らす。

 そして、やっと待望の26日がやってきた。

 私は頑丈に封をされた袋を苦労して開け、ここでやっと今年の西条柿との対面となる。

                   

 

 

 「ツンと尖ったてっぺん」と、「縦にはいったくぼみ」が特徴の西条柿が、姿を現わした。

 この西条柿の姿と色は、私には、とっても可愛く感じられる。

 西条柿に限らず、どの果物や野菜も、それぞれ特有の形と色をもっていて、それを見るたび、私は自然の造形の妙を感じる。

 それはともかく、私は開封日の26日から、渋の抜けた甘い西条柿の味を、存分に楽しませてもらっている。

 

 

 ※ 西条柿とは関係ないですが、下は、昨日、バスを待っている時に撮った写真です

   ~少しだけ紅葉した街路樹のケヤキの葉っぱと、バックの、白い雲と青空~