先週の「日曜美術館」では、日本画家・横山操(ミサオ)氏が、取り上げられていた。
「横山操」と聞いて、何か知っているような知らないような…。
「どんな人だったかなあ?」なんて、ぼんやり考えながら番組を見ていた私の目に、彼の強烈な絵が飛び込んできて、私は
かなり強い衝撃を受けた。
しかも、これが日本画だという。
私はここから、横山操という日本画家とその絵に、強い興味を感じて、番組を見ていった。
(私に衝撃を与えた2枚の絵を、最初に紹介します。)
(1枚目) 昭和32年、放火により焼失した東京・谷中霊園の五重塔を描いた…「塔」
(2枚目) 戦後の基幹産業の一つだった、鉄鋼業を描いた…「溶鉱炉」
横山操氏は、下の写真にあるように、1920年に新潟で生まれた。
戦前に生まれ、太平洋戦争を兵士として体験され(その後のシベリア抑留も含めれば10年近い年月になる)、帰国後は、
戦前からなりたかった日本画家の道へと進まれる。
その時の彼のモットーは、「日本画とは日本の現実を真正面から描く!」 というもの。
なので、下のような言葉を自室の壁に貼り付けて、彼は厳しく自分とも現実とも向き合い、創作活動をされたのだった。
(ここからは、横山氏の作品を、時代を追って見ていくことにします。)
もともと絵がすきだった横山氏は、絵の勉強をするため14歳で上京、ポスター書きなどをしながら絵の勉強を続けられ
ていた。
そして漸く絵が入選するようになったころ(昭和15年)に、二十歳の若さで召集され、中国戦線へと送られる。
(絵を描きたかった青年が、二十歳の若さで戦場に駆り出されていく姿は、何とも痛ましい。)
出征後、敗戦までの5年間は中国戦線での戦いを強いられ、その後はシベリアに抑留され(4年半)、彼が帰国されたの
は、なんと昭和25年、彼が30歳になられたときだった。
その頃の心情を、彼は次のように語られている。 「熱情と憤激、これが俺の人生だ。」
その後横山氏は、(上にも書いたように)「日本の現実と真正面から向き合う」ことをモットーに、絵の制作に打ち込まれる。
当時の基幹産業は(これも上に書いたが)鉄鋼業であり、漁業もまた、食糧増産のための重要な産業だった。
彼はその二つの産業の熱気あふれる姿を、彼独特の鋭角的な手法で描かれている。
~上にも載せた「溶鉱炉」の部分~
~操業する船の様子を描いた…「網」 ~
そして昭和32年、当時観光名所でもあった東京・谷中霊園の五重塔が、放火によって焼け落ちたという報を耳にした横山
氏は、現地に駆けつけ、黒焦げの骨組みだけがかろうじて残った「塔」の姿を、力強いタッチで描かれる。
(焼け落ちてもなお力強く立つ黒い木の骨組みが、私の心も揺さぶった。)
更に昭和37年十勝岳が噴火すると、ちょうど北海道を訪れていた彼は現地に赴き、大地の持つ凄まじい力を、絵に刻
まれる。
上にも載せた「塔」の部分
~十勝岳噴火の際に描かれた…「十勝岳」~
その後昭和36年、40を過ぎた横山氏は、新しい題材を求めてアメリカに渡られる。
そのアメリカで描かれた代表的な2つの絵は、自然と人工物という対照的なものでありながら、共に、横山氏の眼力と技術
の高さを示す、素晴らしい作品になっている。
~アメリカの大地のシンボル・グランドキャニオンを描いた…その名も「グランドキャニオン」~
大地の鼓動が伝わってくるようだ!
「グランドキャニオン」の部分
~アメリカを代表する街…ニューヨーク「ウォール街」~
(狭い青空によって、ようやく2つに隔てられたかのような、林立するビル群の様が、見事に捉えられている。)
「ウォール街」の上部…“赤い尖塔と青空”の部分の拡大 (鮮やかな色彩のコントラストが素晴らしい!)
帰国後も彼はさまざまな新しい題材に取り組まれた。
その一つが、富士山。
彼は下の「富士雷鳴」のような、いかにも当初からの横山氏らしい絵から、様々な描き方を模索され、富士山の絵によっ
て、人気画家の仲間入りをも果たされたそうだ。
いかにも横山氏らしい…「富士雷鳴」 (鮮やかな色彩と鋭いラインが素敵だ!)
伝統的な日本画に挑戦して描かれた…「赤富士」 (この絵は特に人々の人気を集めたそうだ。)
若い頃の横山氏は、生後まもなく養子に出されたことなどもあって、故郷・新潟にさしたる郷愁も持たれていなかったよう
だが、年を重ねるにつれて、故郷への想いも深くなり、故郷・新潟の絵を描くようになられる。
(その中から、いろんな意味で対照的な2枚の絵~しかし、どちらも横山氏らしい絵~を、下に載せます。)
「ふるさと」…赤い夕焼けが特に懐かしく思い出されたという。手前は信濃川。
新潟の冬の情景…「雪原」
彼は50歳を過ぎて脳の病気を患い、右半身が不自由になられた。
それでも、左手に絵筆を持ちかえて、絵に取り組まれる。
下は、左手で絵に取り組もうとしている横山氏と、彼が左手で描かれた絵。
この絵を描いている最中、彼は2度目の発作に襲われ、遂に帰らぬ人となられた。
53歳の早過ぎる死だった。
「絶筆」…左手で描かれたとは思えない!しかも何という穏やかな絵だろう!