今年の8月6日に98歳で逝去された、Oさんのお母さま。
私は大分遅れてOさん宅を訪れお参りさせていただいたが、そのくだりについては、以前のブログに書かせてもらった。
その日、仏前へのお参りを済ませたとき、お供えの品々の傍に、1冊の和綴じの本がひっそりと置かれているのが目に入った。
その本は、ひっそりとではあるけれど、一方で、強い存在感を放ってもいたようで、私の目は自然にその本に引き寄せられた。
「花の挨拶」と題されたその本を見て、私は、「これは?」とOさんに尋ねた。
するとOさんは、「お母さまが80歳近くになってNHKの俳句教室(通信)で俳句を作られるようになったこと」「お母さまは密やかに
投句を続けられていたが、ある時その俳句の存在に気付かれたOさんが、弟さんと相談して手作りで句集を作られたこと」などを
話してくださった。
私はOさんの了解を得て、その場でちょっとだけ句集を読ませてもらった。
そして、すぐに心を揺さぶられた。
詩心・歌心の無い私だけれど、お母さまの句は、そんな私の心にも直接届くような気がした。
ずうずうしい私は、ずっと後でいいから句集を貸して見せてほしいと、Oさんにお願いした。
するとしばらくして、句集の残りがあったからと、Oさんが「花の挨拶」を送ってくださった。
それを見ると、お母さまがNHKへの投句を始められたのが、平成8年(1996年)、<78歳>になられてからだ。
そしてそれから8年間、平成15年(2003年)・<85歳>まで投句は続けられた。
なぜその後も俳句を続けられなかったかについては、平成14年に起こった、お母さまにとって耐えがたい不幸が原因だろうと、
Oさんは言われる。
その不幸とは…お母さまの2番目の娘さん(Oさんの妹さん)が、病を得て亡くなられてしまったことだ。
その悲しみは、お母さまの次の句に、滲み出ている。
春 光 に 逆 縁 の 身 を ゆ だ ね な む (平成14年)
失 ひ し も の の 大 き さ 牡 丹 咲 く (平成15年)
消 ゆ る こ と な き 悔 い く つ 冬 紅 葉 (平成15年)
実は、Oさんたちがこの句集を作られたとき、お母さまは決して喜ばれなかったのだそうだ。
「そんなにうまくもない自分の俳句を句集にするなんて恥ずかしい」と言って、むしろ怒りさえされたとのこと‥。
Oさんのお母さまは、そんなふうに、目立つことを嫌われる、本当に控えめな方だった。
でも、精神的には1本筋の通った強さを持った方だったとも思う。 もちろん、優しさも‥。
そんなおかあさまの特徴を良く捉えた絵を、句集の中で、お孫さんが下のように描いておられる。
最後に、勝手な私の好みで、何点かの句を、次に載せさせていただきます。
行 き ず り に 花 の 挨 拶 交 わ し け り (平成8年)
母 の 日 や 子 を 持 た ぬ 娘 に 祝 は る る (同上)
一 夜 置 く 梅 家 中 に 香 を 放 つ (同上)
鹿 の 瞳 の か な し さ 何 を 告 げ に 来 し (同上)
老 い て ゆ く 嘆 き 言 ふ ま じ 冬 木 立 (平成9年)
寒 菊 の 風 に ゆ だ ね て 強 き か な (同上)
旅 に 出 む 山 茱 萸 の 黄 の 光 る 日 に (同上)
胸 う ち に よ ど む も の あ り 梅 雨 の 蝶 (平成10年)
秋 日 傘 つ ら な り 行 く や 朱 雀 門 (同上)
地 に 触 れ し 紫 陽 花 切 る や 雨 の 朝 (平成11年)
コ ス モ ス の う な じ を 抜 け る 風 や さ し (同上)
い と し み て 老 の 掌 に 置 く 落 椿 (同上)
露 草 の 露 置 く 間 な し バ ス 通 り (平成12年)
校 門 を ど ど と 出 る 子 達 山 笑 ふ (同上)
大 空 を 引 き 寄 せ 咲 け り 白 木 蓮 (平成13年)
あ か と き の 厨 に 春 の 水 の 音 (同上)
恐 ろ し き 足 音 そ こ に 終 戦 日 (同上)
らっ きょ う を 手 鈍 く 漬 け て 老 ゆ る な り (平成14年)
秋 草 や 子 と 語 り 合 ふ 夢 潰 ゆ (同上)
ひ ら が な の 便 り は 孫 へ 山 笑ふ (平成15年)
家 ご と に 香 る 木 犀 郷 古 り し (同上)
イ ラ ク 派 兵 ニュ ース 聞 く ま じ 夕 時 雨 (同上)
お母さまが80歳前後で紡ぎだされたこれらの句の瑞々しさは、ちょっと後輩の私にも、大きな力を与えてくれる。
お母さま、本当にありがとうございます。
(なお、お母さまの俳句に用いられた言葉の表記が、私のパソコンの不具合によって、実際と違うところがあります。どうぞ、お許しください。)