チャット討論会で行われた分国法の討論で自分が思ったことを掲示板に書いたのですが、掲示板ではいずれ消えてしまうので、ブログに備忘録として再アップしたいと思います。
チャット討論会において分国法がテーマになりましたので、参考まで『クロニック戦国全史』から、それぞれの分国法の制定意義が書かれている・推察されているところを抜き出します。(クロニックでは原文が現代語訳されています)
『今川仮名目録』が制定された理由(1526年制定)
(分国法の末に記されているものを現代語訳:クロニック731頁より)
「右の条々、連々思いあたるにしたがって、分国のため、ひそかに記しおくところである。最近人々が小賢しく、思いもかけないことで相論がもちあがったりするので、この条目を記して、相論に対応しようとするものである。そうすれば、贔屓の謗りもないであろう。このような相論がもちあがったときには、箱のなかを取り出して、よきように裁許をすべきである。このほか、天下の法度や、また、今川氏が前々から制定した法はこれを載せることをしなかった。」
『甲州法度之次第』の制定理由(1547年制定)
クロニックの解説によると(734頁より)
「制定の背景・目的は、国内の統一を果たした晴信が信濃侵攻を本格化させるにあたって、父信虎の代から侵略した南信濃を含めた領国内において統一的な法基準を定めて家臣各層を規制し、支配者層と在地各層との紛争を防止する必要があったことが考えられる。」と解説する。
この分国法で興味深いのが、55条。
「(武田)晴信が定めや法度以下に対して違反しているようなことがあれば、貴賎(身分)を問わず投書<目安>をもって申しでること。時と場合によって、(みずから)その覚悟をする。」という条文がある。私見ではあるが、やはり大名の一方的な命令ではなく、自らもその分国法に規定され得る存在という事を示すことにより、家臣層や国人層などに配慮していると見られる。
『結城氏新法度』が制定された理由(1556年制定)
(分国法の前書きされているものを現代語訳:クロニック738頁より)
「そなたたちも御存知のように、(わが身は)老年であるうえに、〔当家にとっての重大事〕5年にもおよび、一日として心の休まることがない。人並みの遊山宴会といった気晴らしさえ好まない性格なので、ましてめんどうな訴訟の裁決などは、もっと〔身にこたえる〕。(こうしたことで)不養生をしていては、命が縮んでしまうものである。そのうえ、当家の〔重臣は、私の裁決について不満な〕ときは、道理にあうのあわないのと陰でささやいている。〔ところが、一方では〕あるいは自分の身にかかわること(であるため)か、親類縁者の訴訟となると、白を黒といいくるめる。親類縁者または指南そのほかにも頼もしく思われようとするのか、実際には死ぬ気もないのに目をむいて、刀をぬくようすをみせて、無理を通そうとする。同僚もそれほど多くないなかで、(このようなそれに)似つかわしくないさしでがましい行為は、理由があるにしても頭の痛くなることである。このような状態なので、私個人として、法律を決めた。そなたたちもそのように心得られよ。この新法は、〔代々の当主が〕行ってきた政治、また私が前々より行ってきた裁定を〔まとめたものである〕。今後この法律にしたがわず、勝手にものをいうような者〔があってはならぬ〕。(そのようなことは)当家に不忠をはたらき〔全体の秩序を〕を破壊し、(結城氏支配の)重要拠点を奪おうとする行動であろうか。この法律にそむかれた方には、だれであろうともかまわず、軍勢を派遣し、誅罰を加えることにする。(今は)平穏を保っているとき(なので)、そなたたちの心得のために条目として明文化したのである。後世にいたるまで、この法律にしたがうべきである。」
制定者である結城政勝の困りっぷりがリアルに伝わる内容ですね。家臣のいいかげんさや、それに対する大名への理不尽な反発が手に取るようにわかります。
『六角氏式目』(1567年)
制定された理由ではありませんが、六角承偵(義賢)・義治の起請文前書ではこのように書かれています(クロニック751頁より)
「第6条(起)国中の法度を今度定めおくについては、永く相違することがあってはならない。このほか、書き入るべき条数があるならば、重ねて(家臣の)おのおのに相談をもって、追加されるべきこと。
第7条(起)(六角氏の)命令や裁決が公正<憲法>であるためには、訴訟、裁判を求める理由や事情に、(提訴者の)親近の浅深によって贔屓したり、あるいは奏者の好悪により不公平があってはならない、(六角氏は)道理に則って、万民に対し、道理のごとく成敗を加えるべきこと。」
『新加制式』(1558年~69年の間の制定)
クロニック戦国全史によると(753頁より)
(新加制式の)「その効果については、『三好別記』が式目によって、阿波・讃岐・淡路の分国がよくおさまったと伝えるところである。」と指摘されている。
これらの分国法をみていくと、いかに大名の家臣統制が苦労するものであったのか、それを如実に物語っています。家臣も人であるがゆえに、道理があっても自らとその親類縁者が関わる裁決には不条理さがでてしまう。それを大名が例え道理をもって裁決したとしても、不利な裁決をされた家臣は陰口をささやく。そんな苦労を感じた大名と家臣の利害が一致して、誰でもわかるような式目の制定が大名家ごとで制定されたといえませんでしょうか。次回の分国法の討論も面白くなりそうな気がします。
分国法の投稿をしてちょっと思ったのですが、私は中世の大名と言うと現代で言うところの内閣総理大臣のようなものとイメージしてしまい、その仕事を行政を中心に見ている気がします。しかし、実際の大名は行政の他に、司法も立法も行っているわけです。
例えば、大名の仕事としては軍事活動や外交活動のほかに、楽市楽座などにみられる商業政策や、貫高制の確立などにみられる農業政策のような行政をイメージしがちですが、その他にも、家臣同士の争乱を裁決したり、税の取立てなど庶民各層に対する配慮したり負担を命じたり、荘園を押領するなど色々な現代行政とは違う一面の仕事が多くのウエイトを占めているのです。農業や商業政策を中心に見てしまうのは、私がゲーム「信長の野望」世代だからかな…というのもちょっとあります。現代の日本中世史は農業中心主義から、網野善彦氏らの努力によって海民など農業民だけでない色々な領国像が明らかになってきています。そういうようなことも、この分国法をみるとかなり理解できるのかもしれないな、なんて思ったりもしました。
チャット討論会において分国法がテーマになりましたので、参考まで『クロニック戦国全史』から、それぞれの分国法の制定意義が書かれている・推察されているところを抜き出します。(クロニックでは原文が現代語訳されています)
『今川仮名目録』が制定された理由(1526年制定)
(分国法の末に記されているものを現代語訳:クロニック731頁より)
「右の条々、連々思いあたるにしたがって、分国のため、ひそかに記しおくところである。最近人々が小賢しく、思いもかけないことで相論がもちあがったりするので、この条目を記して、相論に対応しようとするものである。そうすれば、贔屓の謗りもないであろう。このような相論がもちあがったときには、箱のなかを取り出して、よきように裁許をすべきである。このほか、天下の法度や、また、今川氏が前々から制定した法はこれを載せることをしなかった。」
『甲州法度之次第』の制定理由(1547年制定)
クロニックの解説によると(734頁より)
「制定の背景・目的は、国内の統一を果たした晴信が信濃侵攻を本格化させるにあたって、父信虎の代から侵略した南信濃を含めた領国内において統一的な法基準を定めて家臣各層を規制し、支配者層と在地各層との紛争を防止する必要があったことが考えられる。」と解説する。
この分国法で興味深いのが、55条。
「(武田)晴信が定めや法度以下に対して違反しているようなことがあれば、貴賎(身分)を問わず投書<目安>をもって申しでること。時と場合によって、(みずから)その覚悟をする。」という条文がある。私見ではあるが、やはり大名の一方的な命令ではなく、自らもその分国法に規定され得る存在という事を示すことにより、家臣層や国人層などに配慮していると見られる。
『結城氏新法度』が制定された理由(1556年制定)
(分国法の前書きされているものを現代語訳:クロニック738頁より)
「そなたたちも御存知のように、(わが身は)老年であるうえに、〔当家にとっての重大事〕5年にもおよび、一日として心の休まることがない。人並みの遊山宴会といった気晴らしさえ好まない性格なので、ましてめんどうな訴訟の裁決などは、もっと〔身にこたえる〕。(こうしたことで)不養生をしていては、命が縮んでしまうものである。そのうえ、当家の〔重臣は、私の裁決について不満な〕ときは、道理にあうのあわないのと陰でささやいている。〔ところが、一方では〕あるいは自分の身にかかわること(であるため)か、親類縁者の訴訟となると、白を黒といいくるめる。親類縁者または指南そのほかにも頼もしく思われようとするのか、実際には死ぬ気もないのに目をむいて、刀をぬくようすをみせて、無理を通そうとする。同僚もそれほど多くないなかで、(このようなそれに)似つかわしくないさしでがましい行為は、理由があるにしても頭の痛くなることである。このような状態なので、私個人として、法律を決めた。そなたたちもそのように心得られよ。この新法は、〔代々の当主が〕行ってきた政治、また私が前々より行ってきた裁定を〔まとめたものである〕。今後この法律にしたがわず、勝手にものをいうような者〔があってはならぬ〕。(そのようなことは)当家に不忠をはたらき〔全体の秩序を〕を破壊し、(結城氏支配の)重要拠点を奪おうとする行動であろうか。この法律にそむかれた方には、だれであろうともかまわず、軍勢を派遣し、誅罰を加えることにする。(今は)平穏を保っているとき(なので)、そなたたちの心得のために条目として明文化したのである。後世にいたるまで、この法律にしたがうべきである。」
制定者である結城政勝の困りっぷりがリアルに伝わる内容ですね。家臣のいいかげんさや、それに対する大名への理不尽な反発が手に取るようにわかります。
『六角氏式目』(1567年)
制定された理由ではありませんが、六角承偵(義賢)・義治の起請文前書ではこのように書かれています(クロニック751頁より)
「第6条(起)国中の法度を今度定めおくについては、永く相違することがあってはならない。このほか、書き入るべき条数があるならば、重ねて(家臣の)おのおのに相談をもって、追加されるべきこと。
第7条(起)(六角氏の)命令や裁決が公正<憲法>であるためには、訴訟、裁判を求める理由や事情に、(提訴者の)親近の浅深によって贔屓したり、あるいは奏者の好悪により不公平があってはならない、(六角氏は)道理に則って、万民に対し、道理のごとく成敗を加えるべきこと。」
『新加制式』(1558年~69年の間の制定)
クロニック戦国全史によると(753頁より)
(新加制式の)「その効果については、『三好別記』が式目によって、阿波・讃岐・淡路の分国がよくおさまったと伝えるところである。」と指摘されている。
これらの分国法をみていくと、いかに大名の家臣統制が苦労するものであったのか、それを如実に物語っています。家臣も人であるがゆえに、道理があっても自らとその親類縁者が関わる裁決には不条理さがでてしまう。それを大名が例え道理をもって裁決したとしても、不利な裁決をされた家臣は陰口をささやく。そんな苦労を感じた大名と家臣の利害が一致して、誰でもわかるような式目の制定が大名家ごとで制定されたといえませんでしょうか。次回の分国法の討論も面白くなりそうな気がします。
分国法の投稿をしてちょっと思ったのですが、私は中世の大名と言うと現代で言うところの内閣総理大臣のようなものとイメージしてしまい、その仕事を行政を中心に見ている気がします。しかし、実際の大名は行政の他に、司法も立法も行っているわけです。
例えば、大名の仕事としては軍事活動や外交活動のほかに、楽市楽座などにみられる商業政策や、貫高制の確立などにみられる農業政策のような行政をイメージしがちですが、その他にも、家臣同士の争乱を裁決したり、税の取立てなど庶民各層に対する配慮したり負担を命じたり、荘園を押領するなど色々な現代行政とは違う一面の仕事が多くのウエイトを占めているのです。農業や商業政策を中心に見てしまうのは、私がゲーム「信長の野望」世代だからかな…というのもちょっとあります。現代の日本中世史は農業中心主義から、網野善彦氏らの努力によって海民など農業民だけでない色々な領国像が明らかになってきています。そういうようなことも、この分国法をみるとかなり理解できるのかもしれないな、なんて思ったりもしました。