能登の一宮である気多大社。永禄年間に守護畠山義綱の安定支配が行われた時、朝廷の勅許を得るなど正式な許可を得て、新たに造営が行われた。弘治年間に抗争に巻き込まれたのとは大違い。
その一時期の平和時代の気多大社の古文書の書き方が変わったと言われる。
気多大社の社領などで刈田狼藉などの行為を行うと、以前は「守護沙汰がある」と守護の畠山家の権力を振りかざしてきた。それが永禄年間になると「神罰が下る」と守護に頼らない言葉になったという。
論文しかみてないので、一次史料を見ないと、真意はわからないかもしれない。が、気多大社の真意はどこにあるんだろう。
ある研究者は、守護に頼らないと言うことは、守護の権力が衰えたという。しかし、新たに造営までしてもらっている状況で頼りにしないということがあるだろうか。
あるネットでお知り合いになった歴史に詳しい方は、社の権勢が回復し「神罰」をかざせるようになったのではと指摘した。
室町時代と現代の人間の考え方で大きく違うのが、宗教観。当時の信仰の篤さは現代では考えられないほどのもの。だからこそ能登以外の寺社の例で似たようなものはないですかね?
その一時期の平和時代の気多大社の古文書の書き方が変わったと言われる。
気多大社の社領などで刈田狼藉などの行為を行うと、以前は「守護沙汰がある」と守護の畠山家の権力を振りかざしてきた。それが永禄年間になると「神罰が下る」と守護に頼らない言葉になったという。
論文しかみてないので、一次史料を見ないと、真意はわからないかもしれない。が、気多大社の真意はどこにあるんだろう。
ある研究者は、守護に頼らないと言うことは、守護の権力が衰えたという。しかし、新たに造営までしてもらっている状況で頼りにしないということがあるだろうか。
あるネットでお知り合いになった歴史に詳しい方は、社の権勢が回復し「神罰」をかざせるようになったのではと指摘した。
室町時代と現代の人間の考え方で大きく違うのが、宗教観。当時の信仰の篤さは現代では考えられないほどのもの。だからこそ能登以外の寺社の例で似たようなものはないですかね?