いよいよ到着。「史跡根城の広場」。八戸市博物館の前には根城を築城した「南部師行」の銅像があります。博物館も行きたいけど、よりみたいのは根城の復元部。さきに根城に行こう!
「史跡根城の広場」の入口。入口右に見える建物は「ボランティア案内員」希望すれば無料で案内をしてくれるそうだ。本当ならボランティアの案内を聞いていきたいところだが、今回は時間もないし、自分のペースで周らないと…と断念。
入口にパネルで根城の事が紹介されている。根城の説明版すべてに共通することだが、すべて説明が簡易で聞きやすい。簡潔にまとめられていている。難しい説明は、マニア受けするが、一般客には向いていない。その点で根城は一般の観光客にも耐えうるスポットだと思う。
ここにあるパネルは本丸にも同じものがあるので、混んでいたらとばしてもOK。いきなり本丸の復元にたどり着くのではなく、東善寺郭と中館郭を通って行くことになる。こちらの郭は、本丸と違ってそれほど発掘調査は行われていない。
広場を入ると、左は駐車場、右は薬草園と歴史に全く関係ないもの。広場である以上は、市民の憩いの場にしなくちゃということで、こうなったんだろうかな。
このように単なる広場のスペースもちゃんと郭ごとに分けられて、空堀が再現されていんます。斜面は急ではないがかなりの深さだ。この東構郭でも屋敷跡が発見されたそうで、やはり根城の一部であったことが確認されています。
東善寺跡の郭には、現在もお墓があるようです。
東善寺の郭から先に行くと、堀で区切られて新たな郭がある。ここは現在とても広い広場になっており、家族連れなどが、サッカーやバトミントンをするなどに利用されているようだ。この辺りには、根城の武士たちが観賞用としたと思われる桜や松の木などが発掘されている。また籠城に備えて実のなる木が植えられていた跡もあったようで、その植栽に合わせて公園内の木が植えられています。
この広場から空堀を隔ててあるのが、「中館址」の郭。郭には休憩施設である建物がたっています。
さらにここには根城本丸の全体模型がある。ここで次の本丸の全体像を頭に入れるといいかもしれないですね。
「中館址」を過ぎるといよいよ根城本丸。堀切に掛けられている木橋を渡っていく。なお木橋は、本丸への観光客のため、手すりをつけており、室町時代にはなかったものであると説明版にあった。やはり説明が丁寧です。
空堀を渡ると、いよいよ復元ゾーン。木柵と築地塀に囲まれた虎口を入ると、東門が見えてきます。
料金所で料金を払います。大人なら250円。博物館と共通なら400円。入場は9時から受付で、16:30に受付終了です。定休日は月曜日と年末年始。こんだけ復元してるのに250円とはお得ぅ~。
さて、ここで復元クイズぅ~。これは何の役割を持っている建物でしょうか?
正解は…
納屋でした。一見縄文時代のような竪穴式住居に見えますが、わざと30cmほど掘りくぼめて土間にすることで涼しくなる効果を狙っています。人類の知恵ですね。
さて、もうイキナリ根城のメインである主殿に到着してしまいました。今回の旅のメインです。まだ午前中なのにもうメインディッシュでいいの?ってくらい心の整理がついていません(笑)
主殿とは「当主が特別な来客とあったり、様々な儀式を行ったところです。」(主殿説明版より)つまり郭の中でもっと晴れ舞台なんですね。ちなみに屋根が納屋と違って茅葺ではなく板葺なのは、発掘調査で柿板が見つかったことから、板葺だったのではないか?と考察した結果によるものなのだそうです。細かいところまで考えていますね。
主殿の建物はおおよそこんな風になっています。L字のような建物ですね。もちろん、このような図面が残っていたわけではありません。発掘調査で得られた柱穴の様子から建物の間取りを想像して、その間取りと配置から割り出したものです。本当に気の遠くなるような作業ですね。主殿の復元には5年以上も構想・設計にかかったようなので、関係者による英知の結集が行われたのが、私が見えている主殿の復元なんですね。
この主殿実際に入れます。入口がいきなり台所なので、一瞬ビフォーアフターしたろかっ?って思っちゃいますが…実際、当時の入口ってどこだったんですかね?ところで台所にしては設備が簡単過ぎじゃない?と思った方はするどい。この主殿はあくまで公式の場所。日常的に使う場所ではなかったのです。ですので、きちんとした台所場「奥御殿」にあり、こちらは簡単な調理や配膳を行う簡易台所というわけです。
そして、一番最初の部屋が「詰ノ間」です。この復元主殿では、正月の宴会の様子が再現されており、台所で準備された宴会用のお料理が詰ノ間に運ばれています。しかも、この囲炉裏は実際に使えるそうで、体験学習時に実際に串餅を焼いたこともあるそうです。(佐々木浩一著『日本の遺跡19根城』より)
主殿の廊下である「縁」を伝って次の間に行きます。あれ窓が開いていますね。ガラス戸がなかった時代です。このように上に窓をせりあげて固定します。この窓の開け方覚えておいてください。この後違う史跡で見ることになります。
主殿「詰ノ間」の次がこちらの「茶ノ間」です。こちらにも囲炉裏がありますうが、こちらはつりさげるものがないですね。「詰ノ間」よりも面積が狭いですからないのかもしれません。
面積もあまり広くなく、広間などの儀式を行うための準備室のような設定といいます。儀式の準備として、灯明皿や火鉢がおいてあります(一瞬鍋料理かと思ったが…)。根城では「根城ではかわらけ(素焼きの皿)が出土していないため、出土品の検討から灯明皿は瀬戸・美濃産の陶磁器とした」(佐々木浩一著『日本の遺跡19根城』P.153より)というが、かわらけが出土しない遺跡なんてあるの?ってちょっと読んでいてビックリ。かわらけなんてどこの遺跡でもザックザクでるのに、どうして?東北の遺跡はかわらけ使わないの?ちょっと疑問。
主殿の中で広間に次ぐ格式をもった部屋が「二ノ間」であり、儀式用の弓・鉄砲やほら貝などを置いて、監視用に武士が一人いるという設定になっていまあす。
主殿の中で一番格式高い「広間」です。ここでは「武事始め」の儀式が行われている様子を再現しています。それを表すために、板敷に置き畳を敷いています。
「武事始め」は正月十一日に行われる儀式で、現在では鏡開きの日として伝統になっています。(もっとも一般家庭ではそれすらも行われなくなりましたが…)そのため、広間の背後に鏡餅があります。この部屋は、畳の縁の色、列席の仕方、服装、食事や食器などなど細かな点が復元にあたり議論されたそうです。
ここで出されている食事は「詰ノ間」で用意されていたものと同じです。酒菜三献肴の配膳で、「南北朝期の勝ち戦の陣中で食されたものに由来し、料理は豆腐の吸い物、生の大根、煎大豆、煎披椒であり、箸は茅とした。」」(佐々木浩一著『日本の遺跡19根城』P.151より)
さて、私がよく見ていないで見逃してしまった2つを紹介。この広間から横の廊下。奥には「雪隠」つまりトイレがあります。どんな感じだったのでしょうか。復元されて公開しているの?それとも全然見えなかったの?
前の写真から突き当りの奥から右に進んだところです。細長く続く廊下に展示スペースか…と思っていましたが、家に帰ってよくよく見ていると、ここって「重宝ノ間」だったんです。南部家に伝わる重宝を入れておく部屋、とあります。そもそも広間の後ろが廊下で、広間が廊下に囲まれているってのもちょっとおかしいとは思っていたんですが…無念、重宝ノ間の全体像を取り忘れてしまった…。
「二ノ間」と「控ノ間」に挟まれていて、表の廊下から行けないところにあるのが、この「祈祷ノ間」。古文書によると、本丸に度々東善寺の僧侶が訪れ加持祈祷をするとあるので、最も奥まったところに「祈祷ノ間」を再現しているそうです。
こう考えると、主殿は色々な構想を重ねてできたということが改めて確認できた。これはすごい復元だなあと感心(しかも家に帰ってきてからの方がさらに感心が深くなるという)。
さて、次は主殿を出て根城本丸の他の復原部分を見ていきましょう!